ここではないどこか

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信心深いからなのか、なんだかわからないけれど、「あなたはきっと前世この国にいたのよ」

そんな風にはじめて言われたのが、いつだったのかもう記憶にない。

「前世は〜だった」という言い方になじみもなく、この国や人を理解することが何より自分のいきていく処世術だった頃、そんな風に言われると「うまく馴染めているのかもしれない」と思ったものだ。
嬉しいとかイヤだとか言う感覚よりもむしろ「この人たちは自分を理解してくれていると感じている、自分たちと同じように扱えると思っている」という風に解釈していた。それは何より、彼らを理解するためには大事なことなので、ハードルはクリアできていたのだろうと思う。

じゃぁ、自分が具体的にこの国にいたような実感があるのか、というとそんな既視感(déjà-vu)を体験したこともない。
生徒さんが高名なこの国の占い師にみてもらったら、前世がこの国の偉い人だったことがあるのは聞いたけれど、自分はそう言われたこともなく。いってみれば、私にとってこの国の人たちが私にいう「あなたの前世」話は、私にとっては彼らの体のいいお愛想以上の意味を持たなかった。

数回この国に来た人や、この国の料理が好きな女優さんが「私前世はこの国の人だったに違いない、はぁと」なんて書いているのをみていると、むしろ彼女達の方がそうなんだろう、って思う。

会社に派遣された訳でもなんでもないのに、自らの意思で自主的にこの国のために何かをしたいと思って何十年もいた訳だけれど、そこに因縁めいたものを感じない理由があるのかもしれないと思う。もちろん、今は「何かしたいと思っていた」という過去形だからこんな風に書ける訳だけれど。

ちょっとおかしな言い方をすれば、「愛されていると感じない」というところだろうか。

土地というのはそれぞれにパワーがあって、意思があるから住む人も繁栄させる人も選ぶんだろうと感じていて。そういう風に思うから、日本の人は引っ越しするときにはきちんと地域の氏神様にその旨を報告する。この国にも「国の鍵」「国の柱」があって、県庁所在地にもそれぞれ地域の守り柱がある。お仕事をそこではじめるなんていうときはそこでお願いをするのである。日本でも欠かさずお礼と報告をしていたから、この国でもある方から聞いてこの国でのビジネスの許可と繁栄を求めるお願い儀礼をやったこともある。

傍から見れば、私なんてどっぷりこの国にはまって、やっているように見えていたろうけれど(苦笑)自分では全くそんな感覚はなかった。この国が好きで、何かしたいと思うのにいつもスッキリしない何かがつきまとう。日本ではあまりない感覚だったように思う。それを払いのけるように、足りない何かを埋めようと必死になって努力していたなぁと今ならよくわかる。

自分の中にいろんな変化が起こりだした頃、「私はこの国に愛されてない気がするんですよ」とぽろりと知人の社長さんに食事のときに言ったら、「自分が愛してれば十分じゃないか」というようなことを言われた。私は相思相愛のエネルギーを大事にするから、そんな不感症な一方通行なところは向かない。土地のバイブレーションや自分が生きる場所と自分との関係性に関心や理解がない人に話したおかげで、はっきりと自分の中にあるずれを見いだすことができた。

その時、小さい頃から「ここではないどこか」をずっと探していて、この国だって「ここが探していたところだ」って思えないのに、どうして私は「ここではないどこか」を探して来なかったんだろうと愕然とした。

私にとって「ここではないどこか」というのは桃源郷のようなもので、そこにいれば安心して疎外感を感じることなく穏やかに暖かくいられる場所をさすのだけれど、確かにここはそのどれにも当てはまらない。

そう考えると、私がこの国で前世を過ごした訳でも、愛されていると感じないのも至極当たり前なような気がした。

それでもこの国とこんなに長くつきあうには、何らかの理由や意味があったんだろうと思う。いただいたものに対する感謝の気持ちとできる限りのお礼はしたけれど、もうそろそろ、私にとっての本当の「ここではないどこか」を探す旅に出ようと思う。
きっと、「ただいま」って思える場所があるはずだから。

望む先への変化と自信

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そう言えば、こんな木漏れ日をしばらく感じていない。

いつぐらいからか、自己啓発と呼ばれるジャンルの本をたくさん読んだしセミナーもいくつも出た。なんだかそういうのを一生懸命読んでいた頃の「必死だった」自分をふと思い出す。なりたい自分になりたくて、すごく一生懸命だった。

良くも悪くもまじめすぎるので、書いてあることはとりあえず何でもやってみる。アファメーションでも何でも。そうやっていろんな本を読んだりしたおかげで日本のセミナー産業というか、業界の構造みたいなものがよくわかったし、何をどうやっているのかもすごくよくわかった。わかってしまった時点でもう、その歯車の中に入るようなことは面白くないのでできない。

一時期はその流れの中で自分の会社を組み込ませることに実は一生懸命だったのになぁ、と思う。

会社をはじめた頃、お仕事先で親しくなった社長さんに「お金儲けする柄じゃない」と言われたことを思い出すけれど、数年経ってその意味がだんだん分かり始めたように思う。

お金を儲ける=ビジネスするのは下手だけれど、やりたいことにはお金がいる。スタッフもいる。
その意味が分かり始めた頃、一つの大きな転機があって。

そこから私の長い旅が始まった。

詳細は省くけれど、今までに考えたことのないことを考え、計画を立て、そのためにいろいろな人に会い、話を聞いた。
今までの経験では足りない経験や人の本質を知ったりする機会にもなった。

その長い道のりの中で、何度も「ここまで来たら大丈夫」と思ったことがあった。何をして万全と思うのか、根拠を自分の中に無理くり見いだしていたのだろうと思う。でもそんな根拠は幻想なので、結局は「まだ道の途中」。

そうかと思えば、「もう大丈夫」と安心していたら、何かが起こって「まだ終わっていなくてよかった」と胸をなで下ろすことも何度もあった。

予想外に長い道のりに疲れ果てて、「もう、やめよう」と何度も思ったけれど、なぜかできなかった。

違う道もあるはずだけれど、結局はこの選択肢を信じた自分がいて。その自分を信じていたんだろうと思う。

他のことではすぐ自信がなくなるし、不安になるのだけれど、このことだけはいくら不安が襲おうとも、内側から何かがわき起こってくるような。冷静になることを促して、改めてまた歩き出すように折り合いを付けてくれるのである。

「もう大丈夫」なんて言うのは、たどり着いたことのない先へ到達する本人が言える台詞ではない。そこに気がついたときから、今起こることとやるべきことに専心してきたのだろうと思う。

「何でも思った通りの世界が実現する」というのはもうパラレルワールドが明らかにしているように、事実である。だけれどそこに行くスピードは、現状と乖離していればいるほど、上る階段が高ければ高いほど、時間がかかる。

そうしていろんな執着がとれて、一瞬を楽しみ、感謝に満ちて、階段を昇りきる日にそなえようと決めた時、扉の先が見えるような出来事があった。こんな出来事を通して、私が選択してきたことって言うのは間違いないのかもしれないと思えることがあった。もう間違いないのかもしれないって。そうはいっても、あくまで状況証拠なのだけれど。

何度か、過去のエントリーで成功体験が少ないことが自分を矮小化させて無価値な人間だと思わせているということを書いた気がするけれど、成功って言うのは一体なんなのだろう。
行動に自分の満足いく結果が伴ったとき、人はそれを成功、というのかもしれない。
それは外からの基準であるかもしれないし、自分の基準かもしれない。

いずれにせよ、自分が「よくやった」と思えることを重ねるということが成功体験であり、自信につながる。

そう考えてみると、私のこの選択とそこからくる結果を手にしたとき、私は成功した、と思えるんじゃないかなぁと思う。
かけっこで一番をもらえたような感じの成功ではないけれど。

自分の思いが現実化して環境が変わる過程は、その願いが叶った後にフィットする自分へまた自分自身が変化することも伴う。毛虫は畑にいるけれど、蝶は空を飛ぶように、その環境にそぐうように自分自身も当然変化をするのである。でも、この経過の中で本当の自分がどんな人間なのか見えてきたと思う。

長かったトンネルを抜けて、「もう大丈夫」という現実の中に自分がいるとわかったとき、それは私にとって何にも代え難い自信を与えてくれるんだろうと思うし、そこからは新しい自分として生きられそうな気がしている。

修行の終わり、精進の始まり

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はじめてこの国に来て、仏教を学んで。
「出家したい」ずっとそう思っていた。

この国には正式に女性が出家するシステムはなく、日本にも来ているとある宗派というか団体が力をつけている頃で。
知人が通っていたので連れて行ってもらったことがあったが、そこでは女性も出家のまねごとをしていたがそれには全くピンと来なかった。

仏道を学んで悟りのための瞑想して暮らしたい、と10代の私は本気で思っていた。
毎日の暮らしの中でふと、「出家したらいろんな世俗の人が悩みを相談しにくるだろう、そのときにこの年で出家したら彼らの痛みや苦しみがどんなものかわからない。親身になって話を聞くには経験不足過ぎる。社会を学ばないと」

17歳の時だった。その時から「いつかは出家」というのが私の目標になった。

それからの人生は何も知らなかった私にたくさんの経験値を与えてくれた。

時が過ぎ、経験を積めば積むほど、「修行」という終わりのない行為がぬかるみに足を取られたように果てしなく岸にたどり着けないもののように感じていた。自分の小ささや弱さやいろんなものをより一層知るからであり、歩を進めたつもりでも景色は変わらない。そんな気がしていた。

私が師と仰いだ人たちは、私のことを勝手に「免許皆伝」としてしまうことも不満だった。
出来の悪い私を適当にあしらっているんだと思っていた。

教えられた通りのことを毎日欠かさずやっていると、だんだん教えてもらうことがなくなっていくのだから仕方がない、とも思った。

あるとき、読経をしてたら、教えることがなくなった師が発音に難癖つけるようになった。
発音が正しくないと、届かない。もうそれって?みたいな感じだった。

そのうち、ずっと見ないようにしていた矛盾点やおかしいと思っている部分がどうしても見過ごせなくなってきて、修行する意味や目的よりも大きくなってきてしまった。

そんな時、「もう十分修行してきたよ」といってもらえたことが転機になった。

とはいえ最初は「イヤイヤそんな、まだまだです」って言ってた。

でも自分が乗っかってきた枠組みからはみ出して、自分ももう「違う」って思ってしまったら「ありうべき修行姿」みたいなものも、「いつかは出家」みたいなものも全く色あせてしまった。

本当は、とっくに色あせてたのに自分がわざわざ色付きの眼鏡でみていただけなんだと思うのだけれど。

私が修行をしようと思ったのは、自分を高めたかったからだし、出家するのは本質を極めるためで、そのためには社会で起こることと人の気持ちがわからないといけなかった。

そこには私がどうしても入りたかった枠なんて実は必要じゃなかった、という訳。

修行という言葉は、行いをおさめると書くように、その行いによって「悟り」というサーティフィケーションをおさめるということだろうと思う。要するに「悟り」がゴール。

でも、そこじゃないの、目指しているのは、と思う。

悟りなんて一瞬の気付きなのであって、それが日常になったらまた新たに何かを悟る。それが常態となったとき、覚者となった仏陀となるんだという理解をしている。私はべつに常態でなくても、連続していればそれでいいか、と思う。

そうこう考えていると、精進するという言葉が浮かぶ。
とぎすまして進む、ということ。だから、雑念を払い、専心して一生懸命に行うことで、ここにはゴールがない。

精進するということは、いつも書いている「カミサマノイウトオリ」に自分が生きることであり、その状態を表すのに一番適しているような気がする。

精進には修行のような苦しさも辛さもありうべき姿もない。
ただ、自分自身をカミサマがいつでも動かしたいように動かせるように、万全の注意を払って準備をしていればいい。
それを望む私にはこんなに楽しいことはない。

辛く苦しかった修行ライフはもう終わり。これからは楽しい精進ライフが始まる。

業と扉

2014-06-02 18.54.07

人生の半分ぐらいすぎてくると、自分がどんな業を持って生まれて来たのかみんなうっすらわかっているのではないかと思う。

私は多分、それに気がつかなかったなら、幸せかどうかはともかく平凡な人生を送っていたんだろうと思う。

大きくわけて二つぐらい、私が背負ってきた業があるんだろうと思っていて。

その一つがきっかけで、私は海外に行ったり、自分の国ではないところに住んでいたりしているのだろうと思う。

もう一つは誰にも話したことがないけれど、今のような環境にあるのはこのせいだろう、と思っている。

二つ、といっても結局は密接につながっているし、深く影響を与えていて。

普通に大学を出て、普通に会社に就職して結婚するような環境に生まれたのに、そうできなかったのには、何かしら因縁があったんじゃないか、ということである。

私がこの人生で、いつでも死んでもいいと思って毎日を送っていたわりには、結構誠実に自分の背負ってきた業に向かい合っていたんだろうと思う。自分がそうすることや感じることに理由がつかないけれども何らかの因縁や関連を感じるものを、見たり見なかったりした時期もあったかもしれないけれども、結局は総ざらいでこの数年の間に痛いほど直面させられ、イヤになるほど考えさせられた。

その原因を探っていくといつもこの二つにたどり着く。

だから、これを【業】と呼ぶことにしたのですが。

誰でも多かれ少なかれ【業】と呼べる何かは持っているのだと思うのです。それに気がつくかどうかは別として。

【業】があるから良いとか悪いのかではなくて、どちらかというと、神様が「今生きてる間にこのことをよーく考えなさい」ってだした課題テーマのようなものなのではないかと思う。

どれだけ考えるべきかは与えられる試練とか状況によるのかもしれない。

それでも考えずに逃げ出したり、直視することをやめたりすることもあるだろう。
私だって、逃げていたことも、直視しないでいた頃もあった。言い訳ばかりしていた頃もある。

でも面白いもので、その業に向き合っていっぱい考えて、行動したときにふと意外な扉が目の前にあらわれる。

誰にでも現れるのかどうかはわからない。だけれど私の前には扉がどーんと現れた。

鍵を見つけるかそのまま扉を無視するのか、簡単ではない選択肢だったと思う。今思えば。
だけれど、本当に藁をもつかむ気持ちで。大ばくちを打ったつもりで。
もう崖から身を投げてしまう気持ちで私はそのときに扉の方を選択した。

実はそれを選ぶしか選択肢はなかったのかもしれない、今思えば。

扉の前で待たされることも、新たな階段が出てくることもある。
扉があっという間に開いて、今まで完全に諦めていたものが手に入ることもある。

いずれにせよ、自分の人生に繰り返し起こされる何かにはきちんと逃げることなく対峙した方がいいんだろうなぁということだけはわかる。

あのときに扉じゃない選択をしていたら、どんな人生だったのか想像がつかない。
だけれど、今のような心境やモノの見方や、自分でなかったことには疑いがない。

泥の中から出る蓮の花のように。
漆喰で固められた仏像から黄金の仏様がその姿を現したように。

みにくいアヒルの子が最終的に白鳥になったみたいに。

その醜さや面倒くささを乗り越えて、自分を見つめていけばそれが花開くっていうことがあるんじゃないかなぁと思う。

全く想像しなかった、今までの生き方では届くはずもなかったものがいきなり、目の前にやってくるってこともあるんじゃないかと思う。

もちろんそれはドラスティックに一夜で変わるものではなく、少しずつ自分の意識を変え、自分の見る物を変え、環境を変え、あらゆるものが「整う」その瞬間まではもしかするとわからないし、もしかすると修行は続いているのかもしれない。

時が満ちたとき。自分がクリアしたものの大きさに気がつくんだろうって思う。

再定義

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子供の頃、物心ついた10歳の頃から日記をつけていたという話はもうすでに書いたかもしれない。

その時に綴っていたことなど本当に些細なことなのだけれど、隠れたテーマは【孤独と淋しさ】だった。家にいても学校にいてもいつも孤独だった。周りの友達はそんなこと全く感じていないような風だったし、もちろん誰かにはなせることでもなかった。

孤独なんていう抽象的なことで表現できないから、クラスの誰かが好きかもしれないとか、そういうイメージみたいなところで「淋しくない状況」みたいなのを想定していたりしたように思う。小学校低学年のときに好きになったF君。彼のことは全く覚えていないけれど、お母さんのことをよく覚えている。女性の割には大きくてやさしいお母さんで、学校に来ているのを見つけては彼のお母さんに抱きついていたから、彼よりもきっとお母さんが好きだったんだろうと思う。

学校や家でもいつも淋しいという思いと一緒にいたと思う。

孤独だとか淋しさなんて自分で起こせる感覚ではないから、きっと何かそう感じさせる経験が記憶の奥にはあるのかもしれない。でもその根源はわからないままに私は自分の中にしっかりと【孤独】というものを認識していた。

小さい頃は自分の中にある孤独が暴れだして、自分でも手が付けられないような感じでいたことをうっすらと覚えている。小学生の高学年の頃は包丁を持ち出しては「死にます」って言って騒いだことも一度や二度じゃなかったと思う。自分じゃない何かがどうしようもなく泣きわめいて無茶をしているような感じだった。

「死ねるもんなら死んでみろ」と父にいわれたことを今でもはっきりと覚えている。死にたくなかった、というより、その勇気がない自分にふがいなさを感じた。
学校でも家庭でもそういう風に行動せざる得ないでいる私のことを理解してくれる大人などいる訳もなく、成長するにつれてそんな風に発散することもできず、ただただ日記にその思いを書き散らすようになっていった。

時代的にいじめが社会問題になる頃で、学校ではひどいいじめも受けていたから、あまり目立たないようにびくびくしながら生活していた時間も長かった。ひょんなことでものすごく驚くのはもしかしたらこの時の名残かもしれない。

家庭も厳しい家だったので、共働きの両親が帰ってくると緊張していた。何に叱られるかわからないので、家でも親の前にいる時は緊張して、びくびくしていた。叱られないように先回りして行動しておくようになったことは今となれば有り難い。

孤独と淋しさのあまり不意に感情的になったり不安になることが多くて、誰かといればそれが解決するのかと思っても、淋しくなくなるどころか余計淋しくなったり、淋しさからくる感情の起伏が喧嘩の原因になったりして上手く行かなかった。

大学生のとき、真剣に「孤独」と向き合ってみようとたくさん本を読んだ。その中の一冊、串田孫一さんの「孤独の生き方」という本を読み終えたとき、孤独というのは自分の存在そのもので、死ぬまで内在し続けるのだから、うまくいなしてつきあわないと仕方が無い、と得心した。

思えば、子供の頃からいじめられたり、家でも緊張して暮らしていたり、留学するといっても一人誰も関心のない東南アジアに行くし、留学先ではお妾さんの家で所在ない思いをするし、いろんな人が集まるアルバイト先ですら宇宙人って呼ばれていたぐらいだから、どこかに帰属している、仲間であるという意識がうまく持てなかったのかもしれない。

孤独というのは常に身の回りにあるものだという発想の転換は淋しさの代わりに、「一人生きて一人死ぬ」みたいな感覚をものすごく強めていったように思う。もともと、帰属意識が希薄だから「私がいなかったら上手く行くはずなのに」と考えがちなところに「人は皆一人」みたいな意識がつくと、人間関係についてはあきらめが早くなる。身を引くということが苦でなくなるのである。それは帰属していない、という意識や自分の能力や存在を卑下していることからきたものなのかもしれない。

あまりの引きの早さに、「引き止めてほしいが為に、思い通りにしたいがためにそう言っている」といわれることもあったけれど、自分は所詮一人で、枠外の人間だから丸く収まるのならそれが最善ですと素直に思えた。私はそんな駆け引きのテクニックが使えるほど賢い人間でもない。それは当時も勉強していた仏教の手放すということをよしとする教えに深く共感していたからかもしれない。

だからだろうか、離婚してたった一人の戸籍になった時、安堵のような感覚を持っている自分がいた。一人でいるということは孤独であっても何より疎外感を感じなくてよい。

「淋しい」という感覚を持ってからかなり長い時間をかけて孤独と向かい合い、葛藤してきて、共存するようになった。

孤独とうまく共存していくと、孤独とは自己との対話だと得心したのでずいぶん孤独を楽しめるようにもなっていた。他者との何かを深めたり帰属することを求めなければ、比較するものがないのだから孤独を感じる必要すらない。そのとき、私にとって孤独は淋しさを生むものではなくなったのである。

誰かといても孤独感を持ったり、淋しいという感情は生まれる。大切な誰かと離れても淋しくなるが孤独感は生まれない。この差異は一体どこから生まれるのだろうか。

一人生きて一人死ぬという孤独をいくら受け入れても、自分が崖っぷちに立っているような感覚に陥る時が全くなくなることはない。孤独というのは魂が安堵する先があるかどうか、なのかもしれないと思う。心から愛する人でも信仰でも魂を安らがせる存在があるということが、物理的に一人であるということを超えて魂を落ち着かせる。いくら隣に誰かがいても、魂を安らがせられないのであれば、人は孤独なのである。

淋しさというのは結局は過去に体験した温かな何かを渇望する感覚なのだろうと思う。人が人と暮らすときに必然的に生まれるぬくもりは誰もが知り得るはずの原始的な感覚として、人間にインプットされている。孤独よりももっと肉体寄りの自分ではない誰かの暖かさやぬくもりを感じることで得る幸せを求めているような気がする。

孤独に慣れることで孤独から解放されるような気がしていたけれど、タイトルを「再定義」としたとおり、孤独ではないという時、その魂は安らいでいられる状態をいうのだ。魂が愛で満ちているような。

孤独に慣れてしまっている私は、当初その変化に戸惑っていたように思う。当たり前のようにあった不安感を持たないで目覚める朝はなによりも穏やかだから。それは幼い頃から経験したことのないものだったのだ。

人は一人生きて一人死ぬ。確かにそれは変わらない。組織や家庭の枠の外にいる人生も変わらないだろう。だけれど、孤独でなくこの世に別れを告げられるのなら満たされた人生だったねといえる気がする。

想像力の働かせ方。

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仕事をし始めた頃。失敗したりした時の想定が不十分で対応が後手に回ってしまってひどく後悔するということを何度となく経験した。

学生時代「賢い女は不幸だ」といっていた頃があった。女子大に進学したおかげで回りに女の子がたくさんいたので、彼女達と話していて分析した結論だった。賢い女は想像力が逞しく、計算力に長けているので瞬時にメリットでメリットを見定めてその状況にいくのかいかないかを決めてしまう。それは好意を持った男性とかにも当てはまることで、脳内でシュミレーションして想定して、「ヤーメタ」となったり諦めたりする。

そういう周りの女性達はたいていとても頭が良く、しっかり者なのだ。(私のリサーチでは美人率も高い)私自身はいつだってチャレンジャーで、「やってみないとわからない」と思って行動することが多かったから、不細工でちょっと頭が悪い私は、どちらかというとその逆だった。だからよく「ばかでよかった」、と彼女達にもいっていた。

失敗は多いけれど、後悔はない。そういう人生を歩いてきたように思う。

恋愛やプライベートではそれでかまわなかったとしても仕事ではそうはいかない。特に、大学をやめてフリーランスになった頃から私は脳内シュミレーションがどんどんと上手になっていった。

もともと心配性だから、「上手く行かなかった時」のことを考えるのはお手の物である。それに失敗する要素やタイミングでどれくらい何に影響があるかを考える。仕事をしている人なら少なからずやっていることだろうと思う。

自分が会社を立ち上げて、仲間ができたときには嬉しくてなんだかそこをうまく考えていられなかったような気がする。だから、最初三人で立ち上げたはずの会社に、残ったのが私一人になった時、私はいい感じにどん底な状態になっていた。

この想定が一番底辺だ。今ここが一番最悪でひどいんだ。何度思ったかしれない。だけれど、底なし沼のようにその状況はどんどんと想像を超えてひどくなっていく。

落ちていくきっかけなんて本当に実は些細なことだったのかもしれない。だけれど想定の範囲をどんどん超えていく中で自分に残された選択肢がどんどんと秒読みで少なくなっていくのを体感していた。それを感じるのと同じぐらいの勢いで不安感が増していくのだから、前向きに考えるなんてことはおおよそできずにいた。

そんな中で、義務や義理としてこうしておかなくては、とかこうすべきだ、こうしておきたい、と思っていたことがどんどんと自分の手に余っていった。生きていくのも困難な中で何を誰かにしようと言うのか、と今なら思うけれど、どれほど自分をせめても自分を許せないでいた。

生きていけない、って言うのはすごく切実だから、無理矢理そこでどうしても手放せなかったものをどんどんと手放すようになっていく。ある意味、図太くなっていく自分が生まれたのはここからだと思う。

孤独な中ではじめて胆が座ったというか、相手に遠慮ばかりする自分がいなくなった瞬間だったと思う。

心配性だけれども根は前向きな自分が軸を立て直して、生きるための選択をしていったのかな、と当時を振り返って思う。
それからはできるだけ論理的に積み重ねた「根拠」を積み重ねることによって感情に振り回されない、周りにも振り回されないシュミレーションで、自分を鼓舞し、周りも鼓舞しながら結果的にどんどんと前に進めるようになってきた。

それぐらい、身軽になって、胆が座っても状況的に厳しいなぁということがやっぱり突然やってくる。もしかしたら突然、ではなくてむしろ自分を鼓舞できなくなるぐらい打ちのめされてたり、状況を前向きに捉えられなくなったことがあった。

最悪の想定が「社会的」なものであってももちろん当然のことながら「プライベート」にまでその余波が起きる。いくらいろんなものを捨てきって笑うぐらい身軽な私でも、イヤそんな私だからせめてここぐらいは・・・、みたいに守りたいものだってある。後ろ盾もない孤立無援な状態で、それが守りきれなかった時のことを想定すると、浮かぶ結論はたった一つしかなかった。

そんな最悪の想定をして自分を痛めつけても、最善の何かは生まれない。そこで生まれたたどり着く唯一の結論への道のりはその道程がどのようなものであれ、そこに一直線に進むのだ。だからもうその時は、潔くその漆黒の闇に身を投じて受けるべき裁きを受けるけれど。でもその一直線の道に入るまで、状況が変化しうるところでそんなに自分を痛めつけても百害あって一利無しではないか、と思うに至った。

諦めないで、上りたい階段を必死に上ろうとするために前向きに想像力とシュミレーションをしつこくできるかどうか。それを冷静に論理的にできるのか。不安と希望のどちらを選択するのか。

諦めるためではなく、奈落に落ちるためではなく、行きたい世界に行くために自分の想像力を使わないと。

のびのびしているっていいね。

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私のこの国でのニックネームは「ねこ」という意味なんだけれど、そうなったのはずいぶん昔に私より一回りぐらい若い男の子と知り合った時のこと。年若い彼が知り合ったばかりの新しい友人でかつ年長の私にいろいろ気を使って「あぁしようか、こうしてあげようか」ってひっきりなしに連絡してくるのが面倒くさく、「嫌だ」「嫌だ」と自由奔放にいっていたことから、それがまるでねこの鳴き声のような音のつながりの言葉なので「ねこちゃん」と呼ばれるようになったのがきっかけである。

猫っていうのは犬よりもだいたいにしてのびのびしている。自分基準で、自分の快適さを追求しているように思う。犬みたいに飼い主にぺったりと愛想を振りまくこともあまりない。

「名は体を表す」というけれど、それは本当なのかもしれないなぁと思ったのは、私を「ねこちゃん」と呼ぶ人に対しては普段の私よりもずいぶんはっきり物を言うし、嫌なことは「イヤ!!」と言う。こういうことは日本語の名前で呼ばれる環境よりもかなりあからさまにその傾向があるような気がする。

語感がたまたまイヌじゃなくてネコだったから隠されていた性質が発露したのだったら、まさに無意識の中に猫っぽい自由さが刷り込まれた?なんて不思議な状況なのだけれど。

「ねこちゃん」というあだ名の話は刷り込み的なお話だとしても、実際、思い込みから解き放たれてからはすこしづつ、自分らしくのびのびしてきたなぁと思う。

いろんな方法で頭や精神を解きほぐそうとして、瞑想やいろんなことをやってみたけれど、魂がぎゅっと固まっていたなら本質までは届かない、「何か違う」と思っていることをみすみす見逃してしまうようなことがずいぶんあったと思う。そのころの私は自分らしく、ということが全く何のことか理解できていなかったんだろうとも思う。自分らしくいるよりは、なりたい自分やありうべき姿ばかりを追いかけて、自分が何を求めているのかに注意を払おうと全くしなかった。

その結果、いろいろな教えだとかで塗り固められた表面によってうちなる声が響かないようになっていたんだろうと思う、ずいぶん長い間。

小さい頃、自分が化け物のように感じていた。自分という化け物をギュウギュウと自分の奥底にしまい込んでおきたかったんだろうなぁとおもいだす。

のびのびしている、って言うのは自分の思いのままということで、押し込められる先であった「ありうべき姿」や「理解すべきコンテクスト」がないのだから。

そうやってのびのびして望む世界は、以前よりも明るくて、ナチュラル。
もう化け物はいなくて、ちっちゃい何もない私がいるだけ。

生まれ出た気分で、何だってできそうな気がする。

背伸びをしたその後は。

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日本で仕事をしていた時はいつもピンヒールだった。7センチ以下のヒールを履いたことがなかった。
自分の中で、仕事をするというオンモードとピンヒールはいつもセットだった。

ばりばり仕事をする自分っていうイメージにピンヒールは欠かせなかった。

この国にいると、ピンヒールは隙間のあいたブロックや微妙に広い鉄の網にさっくりと刺さったりはまったりして、ドアトゥードアの送迎付きでエレガンスに仕事をするのでない限りピンヒールをはくにはそぐわない環境。

だけれど身長も小さい私はどうしてもヒールが履きたくて、迷った結果、日本だったら邪道だといって絶対履かなかったウェッジソールをこの国で履くようになった。つま先からかかとまでが厚いソールなので、ささったりしない。

慣れてしまえばこの方がバランスがいいので引っ掛けたりすることもないし、楽なのだけれど、ピンヒールと大きく違うのは「背伸び」感である。

ピンヒールのいいところはいつもつま先立ちしているような、ふくらはぎがきゅっと締まる感じ。あれが辛いような身が引き締まるような感じでとてもいい。一方、ウェッジソールは視界的には同じだけれども、つま先も多少あがっているのでそれほどつま先立ちするような感覚ではなくなる。

前置きが長くなってしまった。

自分が変わりたいと思うときに、「もう既に変わった自分として振る舞う」ということをやってみると、技術的なことや記憶しないといけない、経験値がいるものではなく自分の性質や内面、習慣みたいなものは意外とそれで簡単に変わってくれる。

習慣化はだいたい2週間以上の継続で一つの山を越え、その後1ヶ月、3ヶ月と着実に毎日それに時間を費やしたりできるハードルがあがっていくと聞いたことがある。

私自身、この方法を使って少なからずいろいろなことを自分で習慣化させていけたので、人によってかもしれないが有用性はあるんじゃないかなぁと思っている。

振り上げた拳の行き場に困る、じゃないけれど「背伸び」をした後はどうなるんだろう、とふと思う。

もちろん、その「背伸び」がきちんと習慣化されて、ピンヒールを履いているがごとく毎日背伸びしていられたら、それはもう「ちょっと無理をする」というより「当たり前で自然」な常態なのだからそれで問題ないのだろうと思う。

問題はそうできないとき。「背伸び」していたかかとを知らずにおろしてしまっていたらこんな疑問もおこらないのであろうけれど、「もう足がしびれて痛い」「こんなに辛いと思わなかった」と思いながらまだ「背伸び」しているなら。

それは実は今の私の現状をうまく表している気もするのだけれど。
かかとをおろすにおろせないでいながら、全然それが慣れもしないし、誰かがその背伸びにフィットしたピンヒールを履かせてくれるのを待っているのだけれどまだ履かせてくれない。待ち人来らずなシンデレラ状態。

でも結局、ここまで痛みに耐えながら踵をあげてきたのに今おろしちゃったら、残るのは痛みだけ。

あともう一日、もう一日と思いながら、いつかそれが慣れるというか、ご褒美にピンヒール履かせてくれる日を待つのが勝負所なんだろうね。

申し訳なさとの共生。

2013-04-19 14.44.03

多かれ少なかれ、人生の中で自分のことを卑下したり劣等感に苛まれたりすることがあるだろうとおもう。

能力やテストの点数のように努力でどうにかなるものもあれば、美醜のように他人の基準だったり、経験値や知識の蓄積のようにある程度の時間をかけないとそれを自分のものにできないものもある。

いずれにしてもそれが自分の属性であることを受け入れてそれを向上させるか、劣等感として劣等感までも自分の属性としていくかは自らの問題であると思う。

ある程度長い人生を生きてきて「これを成し遂げた」ということをいくつも持つ人と、そうではない人がいるだろう。「成功体験」といってもよいと思う。

その「成功体験」の少なさが自信をもたせなかったり、自らの存在を卑下させたりするのであろうと思う。
私も今までそうだった。
いや、今でもそうなのかもしれない。

成功できなかったのは自分の能力の低さや運のなさや視野の狭さが原因だから、自分に帰するものだからそこについては望むとも望まざるとも自分で受け入れるしかないのだろうと思う。

だけれど自分の周りの人は、私のそれとは関係がないのに。

そんな気持ちがいつも身近な人に対して申し訳ない、という気持ちを持つ原因だったろうと思う。

簡単にいうと「自信がない」といえばそれまでなんだけれど、むしろ「こんな自分でごめんなさい」という感じでいる。

自分が大好きで、大事な人なのに、自分みたいな人間といることが申し訳ないなんて、あまりない感覚かもしれない。客観的に考えるとすごくアンビバレントな感覚だろうなと思う。

だけれどいつもこういう気持ちを持ち合わせていたなぁと思う。

理解しがたい感覚かもしれないけれど、基本的にこんな気持ちで誰かといたって幸せになれない。

わかっていてもどうしようもなかった。

そこから今、抜け出そうとしている自分がいるのは、やはり「信じる」という概念をここに来てがらりと変えられたからだと思う。「誰かを信じる」ということにはいろいろな段階があるかもしれないけれど、信頼という形で自分をなげうてたとき、それは回り回って自分のもとにやってくる。

申し訳なさでまた殻に閉じこもるのはそう言う人生を送ってきたら、そうしてしまうことの方が実は楽な選択なのだけれど、それをぐっとそのまま耐えることで、今までなかった「成功体験」のようなものが自分に生まれるのかもしれない。自分一人の時には耐えきれなかった何かを、信頼や愛情が一緒に支えてくれる。

ふと、殻にこもろうとした自分を何かが止めてくれる。
それは自分が孤独ではないという証でもある。
そのままの自分を受け入れてもらえているという安心感の現れでもある。

かといって、自分の過去の経験がぐっと素晴らしいものになる訳でも、成功体験が増える訳でも、見目形がよくなる訳でもない。

今ある姿を認めながら、ただ向上していくことだけに劣等感を使えるなら、それも悪くないのではないか、と思う。

受容と信頼

2012-03-04 12.14.32

 
最近になってようやく、信頼できることの素地ってなんなのかその鍵がわかったような気がする。

それは幾度も信頼関係を築こうとしながら、いや、築けていたつもりで実際のところ信を問われるような状況ではそのあたりが揺らいでいることがあらわになるといったようなことがプライベートでだって、仕事関係でだって少なからずあったように思う。

だから私は「信頼」という言葉が苦手で、「その人間関係にあった距離感で」「見返りを求めず自分が最善と思うことをする」という、あまり相手にコミットメントしないやり方を旨としてきた。

私が先ほど書いたようなコミットの仕方をするようになったのは、やはり「受け入れられない」感を感じることや自分と相手の何かを天秤にかけるようなことに疲れてしまったからなんだろうと思う。

人間はどうしても比較をするから、「私の方が〜だ」とか「相手に〜させている」みたいに思う時期があると思う。それが常態になってしまうと「慣れ」になってそれが「当然」になって「感謝」が生まれない代わりに「軋轢」や「不満」が生まれる。

私は「受け入れられない」感もその関係に「慣れて当たり前になる」ということも誰かとの関係で陥ることを警戒していたんだろうなと今思う。

それぐらい人間関係だとかに疲れていたといえばそう言えるのかもしれないけれど。

だから、親しげな部分とものすごく冷たく感じる部分が混在していることが見えてしまった人にはつきあいづらい人間だとも思うし、基本的に今でもその方針が大きくずれることはない。

だけれども、多少ならずともその「他人行儀さ」が私生活では問題になることもあったりする。近しければ近しいほど相手の「親密度」は上がるのだから、家族なんかが良い例かもしれない。何度「他人行儀な」と言われたかわからないほどだけれど、今となってはどう振る舞えば「家族らしい」のかもよくわからない。

誰にでもその人の「許容量」があって、それが自分に向けられている割合が自分の期待値よりも小さいと、自分の思いなんかは関係性からあふれてしまうし、期待値よりも大きいと相手が物足りなく思ったり、相手の存在を重く感じてしまう。

これはお互いそれぞれ環境や性格で全く違うからこれがぴたりと合うことなんてないんだろうとも思う。それに、ぴったりは合わなくても、「この人の許容量はこれくらい」と推し量ることでうまく付き合いができることもあるだろう。

そうやって「愛しすぎないように」とか「深入りしすぎないように」「迷惑かけないように」とか思っていることは関係にはうまく働くこともあるけれど、自分は満たされるのかというとそうでないことも多い。それだけでは済まず、関係性に気を使いすぎた結果、それが度を超して結果的に相手をものすごく怒らせることもある。よかれと思っていたことが相手に伝わらないことで、自分の本心が何を求めていたかなんて気にも留めなくなる。

拒絶だとか裏切りだとかを経験するよりもその方がずっと楽だし。
社会生活を円滑に送るためにはこれはこれで快適だ。

何かを信じようとした時、その根拠みたいなものを人はいつも求めると思う。それが確実であろうがそうでなかろうが。その根拠が「確実」だとか「本当」って思えたとき人は信じるという気持ちを何かに求められるんだろうと思う。

今まで私はその根拠がいつも弱くて信じるという気持ちがいつもぐらぐらしていたのは、「受容」というところにポイントがあったように思う。自分はだせるだけの許容量で最善を尽くすけれど、相手はどうかを見ないでいるということは、受容のバランスが完全に狂っている。

宗教というのが比較的簡単に人との関係を築くのが苦手な人々にとって受け入れられやすいのは「受容」されるという行程が省かれている(双方向ではなく、信心の一方通行でいいということ)ことともつながるような気もしている。

相手は受け入れるけれど、受け入れられているのか、それが本当なのかを見ないようにしているのだから、信じられるわけないのであって。

でも自分が満たされるだけの根拠を提示され、コミットメントを求められたら。

その伸ばされた手は、今までの経過が長く、様々な経験をしてきていればこそ、握るのに勇気がいる。また辛い思いをするかもしれないと思うとしっかりとは握れない。握っているつもりでも握力が弱いかもしれない。

しっかりとその手を握っていると感じられる(信じているとわかる)のはその相手の体温を感じるからで、手をつなぐという行為が信頼ならば、相手の体温を感じるということが相手を受け入れるということなのかもしれない。触れ合わなければ熱は伝わらないし、指を絡めることだってできないのだから。

もちろんもっと簡単に考えて、容易にできる人だっているだろう。

私自身はそうではないからずいぶんと遠回りしてたくさん考えてきましたが。
だからね、誰とでも手なんてつながなくっていいと思う。
でも、誰かの手の温かさを知って、手をつないでいられるっていうのは物の見方がずいぶん変わるよっていいたい訳で。

それまでわからなかった自分の親しい人への「他人行儀さ」加減だとかも、少しはわかるようになったりしたことで、見えなかった一面が見えてきたり。

覚悟をして渡った分、ご褒美として見えてくる世界は本当に自分を変化させるにふさわしい、何か。
そしてそれこそがきっと、求めていたものなんだろうってこと。