姿勢と呼吸、あごを引く。

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前回の姿勢にまつわるエントリーは、予想以上に私自身や読んで下さった方からも反響がありました。

姿勢でも何でもそうですが、「気を抜いた時」に意識した時と同じ状態を保てているのかどうかが本当に難しいこと。

意識していられる時間は随分長くなりましたが、日常生活の何気ない一瞬、気が抜けている瞬間に「あご引いてね」とチェックをしてもらうことがまだまだあります。

ミスコンテストにでる方達が24時間泊まり込みで姿勢等のチェックを世界一の美女を作るというイネス・リグロンさんから受けている様子を番組をみたことがあります。
何気ないところ、気を抜いた瞬間にも「緩まない」ことが身体での習慣化では大切なことなのだと自分自身の身体でひしひしと学んでいる最中です。

意識していく過程の中で、身体がこわばったり、身体のゆがみがとれた結果、痛みがでたりという時期を経て、身体のラインが変わりつつあるのを感じます。

あごをひく

“顎を引く”というのはあごを首に近づけることを意味しないのですが、どうしてもあごに力が入ってしまいがち。そのあたりがよくわかるイラストを見つけたのでご紹介しておきます。

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(出典)https://twitter.com/kogoe_0/status/559333785565544451

首を肩のラインに戻してあげることによって、身体の中心に首が乗り、身体の軸をよりいっそう感じられやすくなるのだなぁという感じです。そうすると首からずっと下がっていくと「丹田」があってここに力を入れてすらりとたてばいいという感じ。

下半身はどうにか出来ていた私でしたが、上半身(特に首から上)はなかなか軸が出ていなかったのだ、とここに来ての毎日の所作を直すことでようやくわかってきました。

その結果、丹田や軸を支える筋肉が強化され(インナーマッスルでしょうか)、あごや首周りが随分すっきりしたように思います。身体のラインにメリハリが出てきました。ぜんそくのせいでどうしても変なところに力を入れたり背中を丸めていたのが、徐々に開いた状態をデフォルトとして身体が覚えようとしてくれているのを感じます。

姿勢は所作に続く
所作だけを美しくしようとしても、姿勢がなっていなければちぐはぐなもので、「指先まで美しい所作」を気をつけて過ごしていたのですが、姿勢が変わってくると所作も変わってきます。美しい姿勢と所作は合理的な動きの結果なのだ、という日本古来の武道や茶道といった「道」に通じる気付きを得られたことも改めて感謝です。

年齢を重ねれば重ねる程、しゃんとした背筋で美しい姿勢、所作でいることが元気でいることの秘訣なように思います。覇気がある、凛とした美しさをどこにいてもどんな場所にいても、誰とお目にかかることになっても立ち振る舞いから示していられるようになりたいと思っています。

記憶の上書き〜人生はミルクレープ〜

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この国で一番気に入りのホテルに初めて連れて行ってもらった日、感情の行き違いがあってギスギスした。

そんなことがあったおよそ一年後、私が一人でお茶しているところに「どこにいるの」と彼がメッセージをしてお迎えに来てくれた。

「どうしてここに来たの?」と彼

「記憶の上書きに」と私

良くない思い出や出来事は、小さい頃からいつも「上書き消去」していくように脳みそがなっているのだ、と思っている。

だから、ここに来る度に苦いやり取りを思い出すくらいなら、幸せな思い出を上書きしてしまえばハッピーだという単純な脳みそだともいう。笑

これで、私がお気に入りのホテルにあるエントランスが見える席は、苦い思い出ではなく、彼が颯爽とお迎えに来てくれた幸せな場所という思い出に上書きされた。笑

先日、ちょっとした旅に出た。その目的地は彼が数ヶ月前に一人でいって、オンラインでやり取りをしながら街の雰囲気を伝えてくれた街だった。彼と通信して話していたカフェに二人で座って飲むのは感無量で、その時に話してくれた場所に手をつないで連れて行ってくれるなんて、本当に待ち望んでいた時間が来たなぁと幸せな気分で満ち足りる。

離ればなれで心配しながら道中の彼を思っていた時とは随分と違う境地なのだ。

人間はもの・場所、いろんなものに実に様々な記憶を忍ばせているのだと最近思うことがある。

それはもしかすると、自分では気がつかない程のものなのかもしれない。
心身を開いて受け止めあう相手がいてこそ、そんな記憶も自分が気がつかないうちに、幸せな思い出はそのままに、辛かった思い出はひとつひとつ、上書きさせていければ、とおもう。

それこそ、大切な人に身を委ねることの大切さというか、意味のひとつなのではないかと思う。

自分で事業を始めた頃、よく「人生はミルクレープだ」という喩えを使っていた。その時は、いろんなパーツが重なって、だけれど、クリームという緩衝材があって実はひとつの事象=ケーキにまとまっているという意味で使っていたのだろうとうっすら記憶している。

ミルクレープを食べながら、その時とはまた違う意味で、人生っていうのはミルクレープみたいだなと思う。一枚ずつ食べるテイストと、クリームが挟まって何層にもなっているだけで全く味わいが変わるのは、何もそのクレープの味が違う訳でも何でもない、「重なること」でよりおいしさが増していくのであり、イチゴなんていうイレギュラーな食感と味わいも口に広がる。

ミルクレープにライフを重ねながら、自分の大切な人が自分に身を任せてくれていることの有り難さを思い、彼が私を受け止めてくれていることに感謝をしながら、これからもステキな思い出や時間をミルクレープのように上乗せしていこうとおもうのでした。

姿勢・呼吸・意識付け

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お買い物に出て、歩いている私をパートナーが見かけて「とぼとぼ歩いている」と教えてくれた。

本人は颯爽と歩いているつもりが力の入るところを間違えていたみたい。
「ここに気をつけるといいよ」と定位置にすっと身体を直してくれる。

頭頂からつり上げるように、とモデルさんなんかもよくかいているのを見かけるけれど、そのためには肩甲骨の下あたりにいつも気をはっているといい印象を持つ。
プラス、肩甲骨を少し下げるような感じだと、肩に力が入らない。

当然あごは引いた状態で、首を背筋の上にちゃんと乗せることを意識する。そうすると自然と丹田に力が入るから不思議。

この姿勢にしておくと「胸を張る」というより「胸を開く」というぐらいで、私にはちょうどいい。
30代の持病のせいでどうしても咳で背中を丸めていたのを少しずつ開いていっているよう。

あとは歩く際に膝の後ろ、太腿の後ろに力を入れて歩けばいい。これはピンヒール暮らしが長いので問題なし。笑

とはいえ、歩いている時は自分の意識が行くので気をつけて姿勢を正しているのだけれど、電話をしている時など無意識に何か身体を動かしてると、パートナーがすっとわきに来て胴を広げてくれる。自分がいかに背を丸めて日々生活しているのかを改めて気付かされる。

24時間とは言わないけれど、無意識でも身体に自分の想いと連動して、想う通りに動いてもらうことの大切さと難しさを改めて実感しながら、それを習慣として身につけるように身体に感謝をしながら整えていく日々を今は楽しんでいる。

新しいブログのご紹介 GRACEFUL LIFE STYLE〜How are you enjoy your graceful life?〜

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ここでは日々思索の結果を書き連ねていますが、毎日の暮らしがすべての基本、その基本の一端のあり方を紹介するブログを作りました。

GRACEFUL LIFE STYLE 〜How are you enjoy your graceful life?〜

大切なことはシンプルで丁寧なこと。
愛情と感謝に満ちていること。

それがGraceful Life Style なのだろうという考えに基づいて、暮らし向きのことをかいています。
よろしければぜひご一読ください。

リハビリ。

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リハビリ(Rehabilitation)とは、re(再び、戻す)とhabilis(適した、ふさわしい)からなりたつ言葉。

適した、ふさわしい状態に、(今ある状態から)再度戻すことをいうのだと思う。

数年間、笑っちゃうぐらい表に出なかったし、すべてをミニマムにしていくことを自分に課しているような感じ。どこまでいろいろなものを削ぎ落とせるか、心身共に挑戦しているような時間を過ごしていた。

日本にいようが、別の国にいようが私は「引きこも」って居た気がする。

仮住まいとはいえ新しい環境は私にとってよい「リハビリ」の期間なのだ、と感じる。
日常の家事が自分をいきいきとさせてくれる。
床を拭きながら鼻歌を歌い、値段交渉をして百合の花を一束買う。

行きつけのジムのスタッフが名前を覚えて「次回お待ちしております」と手を振ってくれる。
顔見知りな人たちと挨拶をして世間話をする。

大切な人と笑いあい、語り合う時間がますます上質のものになってくる。
同じ時間を積み重ねていくことほど、関係性を深めていくものはない。
そばにいられるというシンプルな事実にまず最上級の感謝を捧げずにはいられない。
ありとあらゆることが「一緒に居る」ことからはじまっているのだから。

じっと動かないでいることが修行だったかのような感じで、丸1日一歩も外にでないことなんてそう珍しくなかったことが嘘のように毎日あれやこれやとすることが出てくる。些細なことでも一人で「いってみよう」「見に行ってみよう」と思えるようになったのは、自分の中に閉じ込めてあった「好奇心」みたいなものがピッチング練習を始め、「不安」や「臆病さ」が逆にベンチ入りしつつある。初めてこの国にきた時に「どこか違うところに連れて行かれるのではないか」と不安で地図をにらめっこしていた自分が、ここで生活してからは、まだ乗り物で値段交渉したことすらない。「マダムが下さる分で結構です」と言ってくれる。

自分の感じている世界は自分が描くすべてなのだ、と改めて気がつく。

この国が以前いた国よりもカフェ文化が発達しているのもよい理由なのかもしれない。
散歩の途中「あぁ、このお店はここにあったのね、こんなところにステキなお店ができたのね」と、
地理が頭の中でつながる些細な楽しみ。

散歩休憩や書き物するのによい、コーヒーのおいしくて雰囲気が良くて居心地の良いお店がいくつもある。
カフェのスタッフがたわいのない挨拶をして話しかけて来てくれる。

私のいつの間にかかたくなになっていた何かを少しずつほぐしてくれる、これも「日薬」のひとつなのかもしれない。

「ねばならない」から「あることへの喜び」に大きくシフトしたからこそ、すべてが穏やかで感謝に満ちあふれている。だからあらゆるものがナチュラルで当たり前のように感じられる。

「当たり前」にあるということが実は「有り難い≒めったにない」こと、相反するものはひとつなのだ。
この一対のバルブで感謝というエンジンがぐるぐると回る。

身体を動かすことで心が動き、宇宙との連動がますます良くなっていくのを感じる。
鳥がさえずり、蝶が花の周りを飛び交う中、身の回りのものがますます、一層美しいハーモニーを奏でてゆく。

一足飛びに新しい世界に難なく馴染んでゆけるよう、仮棲まいの街は私を上手くリハビリさせてくれている。

「対の法則」幸せの基準

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 幸せにも「対」の関係があると気がついたのは最近のこと。

「幸せにする」「幸せになりたい」と人がいうとき、その幸せの基準はどこにあるのだろう。

「自分が望むべく状態」を幸せと定義したとしても、それが果たして皆同じとは限らない。それは相手を幸せにする、と思っている時だってそういうことになる。

一人で幸せを追求するというのはあまり現実的ではないので、相手のあることとして仮定すると、当然ながら「相手の意向を十二分に叶える」という幸せにする方法と「自分が思う幸せな状況や環境に相手も自分も置かれるようにする」ということがある気がする。

この「幸せの基準」が対であると思ったのは、どちらか片方だけだと上手く行きにくいなぁと思うからである。例えば、相手の意向を叶えたいと思う二人が揃うと、何も決まらない。日々漫然とした「幸せ」を得られるということではいいのかもしれないけれど、幸せを追求するというより幸せに「在る」近い。積極的な「幸せ」ではなく「どちらかというと「満足」に近い。もちろんそれが悪いともいわない。

その一方で「自分が思う幸せな状況・環境を叶えていく」というのは、相手が自分の思うその状況や環境を是としない限り、相手の幸せにはつながらない。双方が「自分が思う幸せな状況や環境」を目指してそれぞれの方向に走れば、「あなたの意向ばかりをきいている」という、幸せというにはほど遠い、不満やるかたない感情が噴出するだろう。一方は、自分の描く幸せに相手も一緒に足を踏み入れれば、幸せになると思って努力しているにも関わらず、である。もちろん、同じ方向を向いて走っていられればよいけれど、ぴたりとその想いが重なるなんて簡単なことではない。

この幸せの定義のちがいに気がついた時、「なんて悲しいことなのだろう」という気持ちが胸に渦巻いた。

家族であれパートナーであれ、相手を幸せにしたい、幸せになりたいという思いが全く別の結果を生むことになるなんて。
どちらのタイプの「幸せの基準」であったとしても、同じタイプの人との幸せの追求には幸せになるということ以外に調整すべきことが多すぎるのだ。

相手の幸せを自分の幸せだと思えるということは何も相手に追従する訳ではない。積極的に幸せにしていくことでもある。でもそれは相手の「幸せ」の形がはっきりあればこそ、又は自分の中で何をすることが相手に幸せを感じてもらえるかをきちんと見極められるか如何(いかん)だろう。

きちんと自分と違うタイプの相手と一緒にいても、どちらかが相手を凌駕することになればまた関係性は変わってしまう。相手の意向を叶えすぎて、相手がダメになるってことは現実に起こることだから。自分の「幸せ」を求める強さにあった相手、相手にあったバランスが必要なのだろうかとも思う。

自分の身近な人がどちらの「幸せ」を望むタイプなのか、自分はどちらなのかを知っておくことは意外と大事なことなのではないか。誰かの願いを叶えることが幸せな人に、何か具体的な幸せの形を求めても困るだろうし、その逆も然りだ。相手が幸せと感じるありようを把握した上で、「幸せ」だと感じられるように歩んでいけることが最善だし、互いが互いをいっそう幸せにしていくという循環を生む。

相手を自分勝手だとか責める前に、果たして自分は、相手は何をもって幸せと感じるのかを見つめてみることはそう悪いことではない。シンプルに「何を幸せと感じるのか」の差異は善でも悪でも是でも非でもない。もちろん性別に帰属するものでもない。

バランスのよく「幸せ」を分かち合い、「幸せ」を「幸せ」と双方が感じられて、感謝できるようになるための一助となるだろう。

Up side Down

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数日前に絶望をしっているものが強い、というはなしをしていて。

絶望を知っているということがどう強いのか、というと「くるりと向きを変えられる」ということなのだと、ある人の著作は教えてくれる。

絶望それは「望みを絶たれた状態」。私が幾度となく感じたし、出来ればもう二度と味わいたくことはない感覚だ。

私にはずっと不思議だったことがある。余りに毎日苦しくて仕方がないのに、「前向き」で「明るい」と思ってくれる周りの人がほとんどだったこと。どれだけ「絶望」をしていたとしても、「希望」と「なすべきこと」を捨てなかったこと。

今思えば、どうやってやり過ごして来たのだろうと思うけれど、それはすなわち「絶望」という底辺にいればこそ、私はいつもそこから抜け出すための何らかの「希望」や「なすべきこと」を結果的に無理矢理握っていたのだろうと思う。

その循環が私を今の状態まで引き上げて生きながらえさせてくれたと言ってもいい。

自分のネイチャーとして自分の魂に感謝しているのは、「絶望」の中で「希望」や「なすべきこと」を決して捨てなかったということだ。自分の魂が純粋に美しく、望ましいものを諦めない魂としてこの世に生まれたことに感謝しても仕切れない。

前にもこのブログで紹介したことがある、「パンドラの箱」のエピソードは私の幼少からの気に入りのエピソードだ。パンドラの箱をあけると様々な悪しきものがごっそりと封印を解いて出てくる。

だけれどその悪しきものが飛び立った後、「私を出して」という声がする。
その声の主に名前を聞くと、「私は希望」そう答えた。

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何度も何度も読んだこの物語が、もしかすると私の深層心理から支えてくれていたのかもしれない、と今は感じる。

そしてそれが正しかったということも。

たくさんの絶望を知った後でしか味わえない甘露があるのなら、それを味わってごらん、と、とっておきの器に入れて目の前に置かれている。

絶望のさなかにあった長い時間、こんな時が来ると想像もできなかった。
だけれど、希望を捨てず、なすべきことをしていたおかげで今がある。

こんな風に生きて来られたのは、私の意思というよりむしろ、魂が「止むに止まれず」私を導いた結果なのだろう、と今は確信している。ということは、私はずっと前から「カミサマノイウトオリ」に、それがいかなる道程であったにせよ、魂に導かれるまま歩いて来ただけなのかもしれない。

鼻歌とにやにや

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新しい生活がはじまってそろそろひと月。
とはいえ、これも中継地点だから「家」があってほっと落ち着くというような環境とはいえないけれど、新しいページを開けたなという感覚が随所に感じられる。

ひとつは鼻歌を歌うようになった。
昔の私はお掃除していてもよくふんふかと機嫌良く歌だか何だかわからないものを口ずさみながらやっていたものだけれど、めっきりそういうことがなかった。あるときふと自分が鼻歌を歌いながら作業をしているのに気がついて、はっと驚いた。
一体何年ぶりのことだろう、と。

鼻歌が出るって言うのは魂が心から安らいでいるという感じがする。フリーランスでやり出した頃から歌がうたえなくなっていたけれど、もしかしたら歌もうたえるようになるのかもしれない。声は私にとって仕事道具であった一方で、どんどんと使えなくなっていった。「話す声が大きくてよく通る」といわれてた10代なんて今の自分ですら信じられないぐらい。

二つ目はくすくすとよく笑うようになった。昔から笑い上戸だし、営業スマイルも得意だけれど一人でにやにやするタイプではなかった。それがどうだろう。夜中にコーヒーを入れながら思い出し笑いをして一人でにやにやくすくす笑っている。一人でシナモンレーズンベーグルをかじりながら、実は私もこれがお気に入り、と幸せににやけていたりする。

相手がいったことを真に受けて笑い話に出来なかったのも少しは出来るようになった気もする。パートナーと些細なことで大笑いしている時、本当に幸せだなぁと感じる。

まるで人ごとのように「はっと」気がついている自分がいる。些細に見えるこの変化は何から来ているのだろうと考える。
ひとえにずっといつの間にかしまい込んでいた「精神的なゆとり」みたいなものが染み出して来たように思う。

私はどちらかというと生真面目で、ちゃんとしておきたい、といつでも誰に対してでも思っていた部分が強いけれど、そのねじのトルクが適正以上に締め上げられていたのが適正になりつつある。(緩めすぎてもいけないけれど)

思った以上にそれが快適で楽しいことなのだと私の魂が味わいながら、私の身体が自分で呼吸をして、「そうそう、私って確かこういう感じ」って今まさに思い出しつつある。

繰り返し告げられること

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昨年末、「どうしてそれぞれのミッションはとうに終わったことは理解しているのに、二人でのミッションに取りかかろうとしないのか」と言うメッセージが届いた。

ぐうの音もでない明確な宇宙からの突っ込みに「よし、始めなければ」と腰をあげたとたんにいろんな良い流れが来て、順調に進んでいるとかんじていた。

それでもまだ「せっかく唯一無二の使命を与えているのに、集中していない」というメッセージが届く。もうその次元で行動しなさい、望むようにいくのだから、はっきりと望みなさいと何度も言われる。

自分が何かをはき違えているのだろうか、という想いが胸によぎる。

もたらされることを自らの力でとりにいくことを求められているともとれるし、また一方でお前の思うようなことはすべての整うべきことの一部分に過ぎないのだから、それに固執しているお前はおかしい、といわれているという気付きもあった。

「とうとうはじまるからしっかりしなさい」ということをちょっと厳しく言われてるだけなのかもしれない。

新しい環境や人の中でひと月ほどの時間を過ごした中で「まだまだやれるし、もっとやれる」と思えたのは、何よりパートナーが私に日々与えてくれた自信の結果であって、今までのように一人でやりたいとか、一人でもなんとかやれるということを意味している訳ではない。

I からWe に舵をきっていく時に余計なことを考えずに行きなさいとも。

とりとめのない文章で結論というほどの落ちもまだ見つからないのだけれど、書かずにいられなかったのは、何かしら大きく噴火するような、卵の殻が割れるような瞬間が一刻一刻と近づいていることを記録しておくためなのか。

明らかなことは、何度でも繰り返し、伝えられるということ。
驚くほどに明晰な形で。

修正されるまで、時が満ちるまで。

ゆく年来る年 〜収束から快へ〜

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2014年もいよいよ残すところあと数日となりました。

今年一年をいろいろ振り返るこの季節、終わらなかったこと、変化するべくしてはじまったこと、すべてが自然に穏やかに流れつつあるように思います。

この一年は去年にはじまった変化を自分の中に馴染ませて落ち着かせていく、そんなような時間を過ごしたような気がします。「ありうべき」にとらわれず、自分が自分であることや目を瞑っていたことに目を開いてもかわらず穏やかに、自分の求める物や美しいと思う価値観を求めて深め続けられたとも思います。

本当に大切なものはそうたくさんなくて、私はそれを手に入れているのだというところにいつも最後は落ち着ける様になった、とも表現してよいのかもしれません。

もう、不必要に苦しむことも、悲しむことも、辛くなることもなく、あるがまま受け入れて自分は自分の菩薩道を一歩一歩歩み続けること。

愛を示す、褒める、感謝を伝えるという私の大切にしていること、カミサマノイウトオリ、カミサマノナサルヨウニと思いながら生きることがよりしやすい環境を目の前にした年末に、来年の抱負として「快」という字をあげました。

「快」という漢字には
しこりがとれて気持ちよい。さっぱりする。また、その感じ。病気のもとがとれてさっぱりする。病気がよくなって気持ちがよい。 心につかえるものがなくなり、これでさっぱりしたと思う。 もたもたしない。速度がはやい。刃がよくきれるさま。
というのがあるそうです。リンク

どの意味をとっても、今からの私にぴったり添っている感じがして。

自分の心の奥底が継続して感じ続けてられるのは「心地よい」という感覚だという一節からインスピレーションを受けてこの漢字を選びました。

この一年、読者の皆様にはたくさんの気付きやサポートをいろいろな形で頂戴できたこと、改めてこの場で感謝申し上げます。

来年一年が皆様とご家族、大切な愛する方一人一人にとっても健やかで愛に満ちたものであります様にと心よりお祈り申し上げて今年最後のブログ更新とさせていただきます。

来年も日々の気付きを大事にしつつ、思考を昇華させる場としてこのブログを通した対話を続けていこうと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。