おかげさまで。

2014-10-09 09.47.40

おかげは陰(かげ)に御という漢字をつける。

御陽はないけれど、御陰なのだ。

御陰というのは神仏や他人の加護、助力によって何事かをなし得るときにその言葉を使う。日本語って言うのは素晴らしい精神性を表現した言葉だ、なんて美しいのだろうと改めて思う。

陽のあたる自分の実績ではなく、後ろや下の部分で見えない尽力をしてくれ、成功に導いてくれた存在がなんにでもある。それを表にだすというか「その尽力、加護により」何事かを成し遂げられたということを示す。

何かと言えば、自分がなし得た実績や成功をショウオフしてしまうしてしまいがち、望んでいた成果ならましてやそうであろう。
優れた経営者が立派であると言われることの由縁はその「御陰」の存在をよく知ることである。自ら一人では何もなし得なかったということをよく知るからこその「御陰さま」なのである。

もちろん、陰の存在が自分でショウオフすることもこの世の中少なくない。だけれども、そこはやはり奥ゆかしくあるのが日本人のあるべき精神性だとも思う。

あなた様のお力あってのこの成果ですと腰低く頭低く、宇宙にもカミサマにも回りにも感謝を示し、「自分がなし得た」ということよりも「御陰」としてサポートして下さった宇宙や神仏や周りの協力を忘れずにまず言及すると言うこと。

何故御陽という言葉がないのか、放っておいても「成功」という形で注目が集まるからだ。主役はあくまで自分。でもそこにあぐらをかくといつの間にか「御陰」が姿を消して成功も永続していかないであろう。バランスの問題。「自分がやった」と言わなくても自分がなし得たことは自分がよく知っている。だからこそ、いつも「御陰さまで」このような成果を得られたと言えることが私にとっては一番自分の心根にフィットしたものとも言える。

人は一人で生きている訳でも独立独歩、何かをなし得る訳ではないのだから。

滅私でカミサマノイウトオリ、カミサマノスルヨウニ、自らの立ち振る舞いをと思うからこそ、この「御陰」という言葉の深さが改めて胸に深まってくる。

自分が変わることで結果的に巻き起こる変化とその覚悟。

2014-10-14 14.24.58

自分の身近な人に堪え難い何かがあるとしよう。又は本人が堪え難い問題があるとしよう。

自分は相手ではないので、その堪え難い何か(習慣かもしれないし癖かもしれない)や問題には直接手出しをできない。
いくら自分に大切な存在でも相手は自分ではない。

変えられない。

これが現実だ。

それを心配してみていたり、イライラしてストレスをためたり、いつかよくなるだろうと楽観するのも一手だと思う。
だがその人が本当に大切なら。
自分は放っておけるだろうか。

ただ相手を非難してみたり、心配しすぎて鬱陶しがられるのもなんだか違う気がする。
すべて自分に持って来たときに、その人の痛み苦しみや悩み、その原因を自分のことのように思えるのか。
「そんなあなたが悪いの」「仕方ないわよ」

と思うなら、私の思う大切とは定義が違うんだろうと思う。
癖であれ状況であれそれは表層であって、それがおこることを余儀なくされた原因が何かしらあるはず。

それを心から感じて、取り除けるなら何でもしてあげたいと思うかどうかだと思う。
人と関わるというのはそういう覚悟があっていいはずだから。

表層ではなく根源を取り去るにはその根源にある心の問題にフォーカスしなくてはいけない。自分の心を見るように相手の心を見ないときっとわからない。その根源がすぐにわかるとも限らない。

その根源が孤独や不信、なんであったとしても行動を持って愛を示すことで相手は変わっていく。

例えばいつも優しい言葉で挨拶を欠かさない。感謝の言葉をたくさん紡いで届ける。褒める。なんだっていい。それを常に心を込めて滅私で相手にし続ける。褒めるという言葉や波動は壊れたDNAを修復する効果があるというロシアの研究があると先日読んだ。だから褒めるのもいい。それで傷ついたものが癒されていくこともある。

いやがられることも、不審がられることも覚悟で、相手がどんなに大切で素晴らしくて愛おしくて、存在に感謝しているかを伝える。病気なんかの好転反応と同じで、いやがられるときもあるかもしれないけれど、いつか何故自分がこうしているかをわかってくれる日を信じて、自分の大切な人にただひたすら尽くす。

いつこれが終わるかわからない。きっと傷の深さによるのだろうと思う。
それだけ長くかかるっていうことは、本人がそれだけ長い間苦しんで来たことの証でもある。
これは私も体験して来たことだからよくわかる。

だけれど、乾いたスポンジに徐々に水がしみ込んでいくように、行動と言葉を通じてかけて来た癒しの力は、あなたの大切な人の辛さを必ずや変えてくれる。それまで根気良く続けられる覚悟があるか、それに尽きる。

相手を変えるのではなく、自分が相手にできる限りの想いと愛を行動で自分を変えていけるかどうか。それにかかっている。
その想いが通じた日、当初の自分の願いであった相手の苦しみが取り除かれるんだろうと思う。

その過程こそが、問題の解決よりももっとかけがいのないものになるということは体験者でないとわからないのかもしれない。ただ、中途半端で生半可にやればもっと悪い結果を招きかねない。

自分に愛があるのか、覚悟があるのか。
問われるのも、変わるのも自分。
あなたとあなたの大切な人の苦しみが少しでも軽減しますように。

気付きと愛、褒めることと褒められること。

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毎日考えて深めていくこと。それは魂を磨きに磨き、曇らないようにしていくことでもあって。
間違いに気付き、ただし、許す。よいところを認め、のばし、一層愛する。その連続。

愛とはなんなのだろう。
溢れ来るやむにやまれぬ暖かい何かが愛なのではないか、と言うのはあまりにもイメージ先行型というか感じている感覚や映像を言葉にしているにすぎないのかもしれないけれど。

愛と言うのは究極に暖かく美しく強い波動なんだろうとも思う。
その溢れる源をいつも感じているし、思っている。

自分がそれを回りに波及させたり届けるにはいろんな方法があると思う。
私は教えることを自分の仕事とし始めてから、「褒める」「いいところを見つける」という才能に長けていることに気がついた。褒めて伸びる人と伸びない人とがいる。
その話はあとにして、私が先日深く感じ入ったあるブログのエントリーの引用をまずはご一読いただきたい。

水晶の家れいさんのブログから一部引用させていただきます。引用元はこちらです。

☆褒められれば心が喜び感情が高ぶります。脳が生きる意欲の「ドーパミン」(快感増幅)を分泌させます。
エンドルフィンといって脳内モルヒネも分泌されて精神的ストレスの解消にも役立ちます。
免疫細胞の防御反応が強化されますから健康には最適なわけです。少しの心がけも自分への躾と考えましょう。自分を褒めたり評価してあげるのは当初恥ずかしかったり抵抗もあるものですが、自然と違和感なく善なる心が発信できるようになるものです。素直な心がそのとき役に立つのです。

☆この話の大切な部分は、これからです。何故意識の快である「褒める」ことが幸福や平安、調和をもたらすのでしょうか。それ実に論理的に出来ています。つまり人間の進化を司る愛の表現のワンシーンだからです。
意識の世界は実学であり人間本源の生命の本質を知る上で新時代には避けて通れないものです。

☆へりくだることが美徳と勘違いしている場合があります。「いえいえ、私なんか…」とはよく耳にする謙遜言葉ですが深層意識からすれば理解不能かもしれません。謙遜はのぼせ上った人には調整としていいのでしょうが、正しく社会活動をしている人がいて周りから評価されているとすればそれはそれで「有難うございます。」で返礼を返せば内外に良い影響が放散します。くれぐれも卑下し過ぎたりへりくだりすぎは深層意識には曖昧ととられますから注意しましょう。正しく評価判断して感謝の念を伝えましょう。

☆自分の善きことを評価し褒めることは意識に明確な快のサインを送ります。瞬時にそれは処理され次なる現象化の礎になります。
自分の善きことも必ず正負同等の価値を含むものであります。それを瞬時に看過し、創造の法則に則ったもので自然で無理のない建設的進歩的事柄であれば次なるイメージが新たに脳裏に浮かぶなり偶然としか思えないような現象が続きます。
評価され褒められ感謝される事柄は、創造の掟に叶ったものであることが望まれます。これが曖昧だと不自然な社会が出来上がります。

☆パートナー・夫婦同士も何かにつけて良いことは褒めてまずいことや悪習は互いに除いてゆきましょう。子供は親の背中を見て育ちます。感情で指導することのないようにしましょう。そして良いことはきっちりと目を見て褒めてあげましょう。

・・・・・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・

心が喜ぶ=ドーパミンが出る=エンドルフィンも出る=精神ストレスが解消=免疫細胞の防御反応が強化=心身の健康にいい。
褒めること=幸福や平安、調和=人間の進化を司る愛の表現のワンシーン
ということが明確に書かれています。

また一方で、「褒めるとは、感謝行であり自分に対する評価の現れです。また、それは鏡の法則でもあり、相手に見る美や徳や感謝は取りも直さず自分の優れた美徳の投影」とも書かれています。

私は仕事柄、多くの人を褒めて来たつもりでしたが、褒めても信じない人、褒めたところにあぐらをかいて何もしなくなる人、褒められたことを素直に感謝して受け入れる人と大きくわけて3種のパターンにわかれました。

「褒めて伸ばす」というのはこの3番目の人にだけ当てはまる手法なのかもしれないと思いましたが、褒め方が今からすると足りなかったのかもしれません。自分にないものを「素晴らしい」と素直に認めて褒めること「よくやったね」と言えることはやはり人間関係の基本です。

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褒めるという単語を聞くと、なぜか高倉健さんの「あなたに褒められたくて」 
というエッセイのタイトルが頭に浮かびます。

あの高倉健でさえ、誰かに褒められたいと願う。
褒められるというのは部分的であれ完全な肯定であり、賞賛です。
その積み重ねが自信になり、感謝になり、ますますよい芝居をしようと思うのか、内容を読んでいないので想像にしか過ぎませんが、このタイトルにはそれだけの想像力をかき立てる人間の素直な想いが出ている気がします。

みんなでなくてもいい、ただあなたが褒めてさえくれればいい。
人間というのはかってなものですから、褒めてくれる相手すら、実際は選んでいるのかもしれません。

私はあまり褒められるようなできた人間ではなかったので、このタイトルには何となく思い入れがあるのもそのせいかもしれません。褒められたいという一心で、なすべきことをなす。それだって立派な目的なのだから。

だから、精一杯、言葉と身体を駆使して褒めるということが必要なんだと思います。
褒めるというのは人生という長いレースの中のドリンクの補給や食べ物の補給だったり、道ばたでの声援のようなもので、その褒められるということを通してまたエネルギーをチャージし、ゴールに向かって進んでいく。

褒めるという行為を通じて人は自分を振り返り、人の魂にエネルギーを注いでいるようで実は自分の魂を磨いているのだと思います。その言葉や態度に人は癒されて、自信をつけ、一人ではないと安心して進んでゆけるのだと思います。

褒めることも褒められることも天秤にかけず、ひたすら自分と相手の美点に気付き、それをのばしていく。
それが魂を磨くという行為=愛なんだろうと腑に落ちました。

美しくありたかった。

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業<カルマ>と一言でいっても何をイメージするかは人それぞれかもしれない。

人生で解消しなくてはならない、目の上のたんこぶのような何かみたいなイメージとか。
いつも自分に立ちはだかる障害みたいな。

私は生きることにまつわる全般がずっと苦手で。
苦手なのに、躾けてもらったおかげだったり、業<カルマ>の昇華のために与えられた性質のおかげでぱっと見そんなことわからないかったかもしれない。

生きることに小さい時から執着がなかったし、「生きている私」がどことなく不自然なのに、「情熱的な人」とみられることへの自分の心の奥とのギャップ。それで孤独感が一層深まったかもしれない。社会や人とのずれ、無理解。

それを業<カルマ>と呼ぶのなら、どうにかするために今生があるのだろうと闇雲だけれども歩んでいた道は間違っていなかったのかもしれない。

どれだけ絶望しても、なぜ生きてるんだろうと思っても死ななかった。
どこからそれでも前に進もうという意志が生まれていたのか、正直今でもよくわからない。

ただ、正しく美しくありたかった。
正しさも美しさも人それぞれなことはよくよく知っていた。
それを超えた基準。

あらゆる「ありうべき」を超えたところにある、エクスキューズのいらない、不安のない正しさ、美しさ。形があるのかもどこにあるのかもわからない、正しく純粋で美しいもの。

人生の主要なパーツでわからないことがあった。例えば、何故この国に何年もいるのか。
だけれど、生まれてからずっと、正しく美しいものを探すための旅だったのなら。

その基準を持って何かをなすために、あらゆる縁を最小限にした形で「見つけるまで、生きてみなさい」と放り出されてこの世に生まれて来たのかもしれない。

業<カルマ>がなんだということよりも、自分の中で説明のつかないものに自分にとってはとても納得がいく答えが見つかったこと、「生きててよかった」と言うより「死なずにここまで来られた」という気持ちでいる。

読んでくださっている人には意味がよくわからないかもしれないですが、今生の役割が明確にわかったところの実感を残しておきたくて。

カプリ島へ想いをはせて

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“Wyspa Capri”. Licensed under Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 via ウィキメディア・コモンズ –

カプリ島は南イタリアのティレニア海に面した面積が10㎢しかない小さな島。
ローマ人の歴史を読んでいると、インペラトールに最初になったのはカエサル、その後継者のアウグストゥスが気に入って購入したのだけれど住むことはなく、後の皇帝ティベリウスがここで治世の半分を過ごす。ローマに住まずしてローマ帝国を統治したのだ。

ティベリウスはもともと優れた軍人だった。一時はアウグストゥスにもかなり大切にされるが、血筋をおもんぱかるアウグストゥスは彼を重要ポストにはしない。だけどその一方でティベリウスを愛する妻と無理矢理離婚させて自分の親戚と結婚させるという政略結婚の道具にもする。

政治的にこれ以上無理だと判断した時、彼は早期の引退を決意してローマからはなれる。しかし、アウグストゥスの狙っていた親族の後継者達が見事なまでに亡くなったり、自身で身を滅ぼしていく。その結果、アウグストゥスは選択の余地なく再度ティベリウスを登用する。

アウグストゥスに選択の余地がないということはティベリウスにとってもない。
やらないと仕方がなくて皇帝になった人がティベリウスなのだ。

彼はカエサル達のような人間的な魅力のある皇帝というよりむしろ、システムを構築して人材を上手くそこに当て込むのが上手な真面目でよく考え、周りの人間や部下の能力や気持ちがよくわかったのだろうと思う。だから、島からローマ帝国を管理することができたのだろう。そう、彼はおさめていたんじゃなくて、管理していたのだと思う。

与えられた役柄をただただ全うする。そこにつきていたのだろうと思う。
だからこそ、先代の皇帝達がされたような神格化や自分の人気取りのような事業や施策は全く行わず、むしろ全否定して淡々とローマ帝国を維持するための行政を行ったのがティベリウスだといってもよいと思う。

どうしてローマでしなかったのか。歴史家のタキトゥスや当時のローマ市民はその彼の態度を非難し続けたけれど、私には自分なりに痛い程よくわかる。

戦場という命をかける場で、人の性質や人心を把握して目標を遂げることと政治は全く違う。彼は人間に傷つき、疲れきったのだろうと思う。アウグストゥスをはじめとする周りの自己中心的な横暴さ加減や、相手の気持ちよりも自分の欲を優先させたりだましあうことを。

ティベリウス自身がその欺瞞的なやり取りの中で踊らされたとしても、自分も誰かに対してやってやろうとは思えない人だったのだろう。自分はやらないし、そういう人やことがらに心を煩わされたくない。だけれど、皇帝という職務は果たさないといけない。男らしい強い人だったのだと思う。

無理矢理愛する妻と別れさせられ、政略結婚の相手と離婚した後の彼は独身を貫いている。全く女性を近づけなかったと言うし、昔の妻を偶然最後に目にした後、二度とあわなかったと言う。

彼のように高潔で責任感もあるが、繊細で応用が利かない人の最終的な選択肢だったように思う。行政的手腕を円滑に発揮することだけに集中する。それ以外のことに心を煩わされたくない。
もう自分の心を壊されるような出来事を遠ざけたかったのだろう。誰に何を言われても。
そうすることでしか、皇帝の役割を無事に果たし遂せないと思ったのかもしれない。

カプリ島の静かな場所で、彼はきちんと自分の役割を果たし、自分の心を守った。皇帝らしくないし、魅力的とは言わないけれどその想いが手にとるようにわかる。

ティベリウスがもう一度その愛した妻か誰かと恋に落ちたなら。
疑心暗鬼から新たな愛を構築することがどれほど難しいかは多少知っているので、そんなことするくらいなら一人の方がいい、と思うのが自然だとも感じる。

柔らかな心が傷つき、ようやく守り抜いたものをまた人にさらすのだから。
今一瞬を生きる、過去の疑心暗鬼も苦しく辛い想いもすべて捨て去ることを愛は要求する。

ティベリウスのいけなかった境地、それはその辛い過去の気持ちや疑心暗鬼すら捨て去るという境地だ。

私は自分にとってのカプリ島に行くことをやめたのだから、彼のたどり着いた境地の先にあるものを目指して歩いている。いつかカプリ島を旧友に会うような気持ちでたずねられたらと思いながら。

 

追記:国際政治学者の高坂正堯先生がローマ皇帝の中でティベリウスに他の誰よりも共感を抱くとおっしゃっていたと言うことで著者の塩野七生さんはこの章を高坂先生に捧げている。

言葉の形作るもの、視界が変わる時。

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「あんたはかわいいなぁ」と言われて育つ子と、「お前は出し殻やな」と言われて育つ子だったら圧倒的に前者の方が素直に顔立ちももっとかわいらしく育つだろうと言うのは周知の事実かもしれない。

毎日起きたら、「おはよう」と言って、帰ってきたら「ただいま」「おかえり」って言うやり取りが作り出すものって言うのは一体なんだろう。

一人暮らしが長いと、独り言が増えるというけれど、もっと長くなるといつの間にか私は言わなくなった。誰かが同じ空間にいる想定が自分の中になくなったからだろうと思う。

言葉って言うのは環境を創り出すものなんだろうなと思う。

独り言は言わなくなっても、いってきますとただいまといただきます(時々さぼる)は言う。
それは対象が人ではなくて住んでいる空間だったり、神様だったりするからだ。

愛してます、とか、ステキだね、とか格好いいとか、すごいねって言うことは単純に言葉を交わす、言葉をかける以上に意味がある。それらは「蓄積していく」のだ。

あえて書かないけれど、その逆の言葉だってそう。
言葉の威力は一発の破壊力はともかく、この「蓄積していく力」に人間関係では本領が発揮されるのではないかと思う。

カエサルが言った言葉で印象深い言葉がある「人は見たいものしか見ない」、と言う言葉だ。

相手が自分にとってステキな存在でいること、それが自分にとって誇らしい存在だと言うことは当然自分にとって「見たいもの」である。その「見たいもの」を創り出すのは自分の相手にかける言葉もその要素の一つなのだろうとおもう。

まさに仏教用語でいうところの「相即不離」(意味:関係が非常に密接で切り離せないこと。区別がつかないほど密接な関係のこと。)なのだ。

たとえいくら感謝をしていても「一緒にいると疲れるよね」とか言ってしまうと、「疲れる人(モノ、場所)」にしか見えなくなってくる。

言葉と言うのは言った瞬間、消えてなくなるけれど、「言葉にする」と言うのは行動なのだ。

相手を愛しいと見るためには愛しいと感じている言葉で、心を込めて。
相手が自分でも同じことが言える。

私は自分にずいぶん厳しい言葉ばかりかけてきたけれど、最近、「あなた辛抱強いねぇ」とか「よくいろんなことが見えてるね」と評価してみる。そうできるのも私にずっと思いやりの詰まった言葉をかけてくれる人がいて、私の中にしっかりと蓄積してきたからこそ、の変化だと感じる。

その蓄積のおかげで、私は次第に迷いがなくなってきたように思う。

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簡単な実験で「ありがとう」とか「愛している」と言い続けた水や植物と、「バカ」とか「嫌い」とか言った水や植物だったら創り出す結晶が違ったり、腐食の度合いが違ったりすると言う実験を見たことがあると思う。

水に小石を投げたときに広がる波動のように、その言葉がその空間や相手に波及し、その空間や相手に影響を与え続けると考えるとその大切さを一層強く意識しなくてはと思う。

小さく起こった波が起こす影響はリアルタイムではなく、波動がどんどんと広がるに連れて離れた先にある船を揺るがす動きになるような感じで物事って言うのは変わっていくのだろうかという仮説を今立てている。

視界が変わるのは船が揺れた時。
その結果が分かった時、どの波が何を起こしたのかを私は知ることができるのかもしれない。

(とはいえ、視界が変わることこそが目的なのだからどの波であれ構わないと言えばかなわないのだけれど。)

鏡のような存在に

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最近のスモールビジネスなんかは特にブログが広告みたいな感じになっていることもあって、「語る」のが当たり前になっている。
世間のこと、政治のこと、自分のこと、陰謀論などなど。

「あれを使ってはいけない」「これはこんなに悪意に満ちている」「あなたこんな風に考えてませんか」
世の中なんて今までもそういうものだったけれど、書籍から媒体がウェブに移行するとそれを語る人たちがどっと増えたんだろうと思う。

このブログも人に語ると言うよりは自分が気がついたことを「書き残したい」と言う衝動に駆られて、人様にも見られる文章で残しているに過ぎない。日記何かだとやはり「前提条件」が多く入りすぎて、主観的すぎてよくない。

それはともかく、Facebookのタイムラインなんかをみていても、すごいパワーだなと感じる。
周りに伝えなくては、教えなくては、これは悪なんだ。みんな知らないんだ。だから教えてあげる。

何かもっといい手はないのだろうかといつも思う。
日本の人はみんな商売に結びつける勤勉さももってるから余計なんだか頑張ってる感が出るんだろう。

私は自分の考えが世の中をよくすると思っても、人の役に立つにしても、あんまり誰かにダメだししたり、「教えてあげる」みたいな感じは苦手だし、無理してやっても続かない。教えると言う仕事に就いていても「たまたま自分が先にできるようになっただけ」と思っているからかもしれない。

何をテーマにしていようとダメ出し、啓蒙してるのって、結局論調で同じグループにカテゴライズされている気がする。主張が違ってもにたような組織に見えるとか、あるでしょう。あれは方法論が同じだから何だと思う。

ダメ出しっていうのは現状分析と未来の展望がセットになってされるものだと思うし、体制などの批判にしても対案がなければ意味がない。

結局は自分にそんな人をとやかく批判分析したり、啓蒙しようなんて精神的なパワーも何もない訳なんですが。
かといって「愛してます」とか「ありがとうございます」のオンパレードも自分にはできない。

それでどうなのかっていうと「行動だけがすべての結果に帰結する」という私のいつものロジックに到達する訳です。
この大きなウェブの世界で起こし続ける行動が、いつかその波動が何か変化を起こすために自分が良しとすることをし続け、それを発信する。

自分の思う人間のありうべき姿、社会、人間関係。それを実践することからしか波動はあがっていかないし、伝わっていかない。
私は自分を高めていくことに一生懸命すぎて誰かにその波動が伝わることを拒絶していた嫌いがありますが(まだある)、これからはもう少し波動が伝わっていくようにするのを妨げないでいようとおもいます。

自分がとても心地よく幸せにいるためのいき方は人それぞれだけれど、同じ価値観の人にそれが広がり、気付きを得あうのも悪くないんだと。見つめて見守るときと、相手の姿を鏡に映すその鏡となる時。そんな鏡の様な存在になればいいと最近思っています。

きれいに磨いて曇らせないように。
それが自分にとっての精進でもあるとも感じます。

自分がただあること、恥ずかしくない姿で。それが基本。

行動という証

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どちらかと言うと言葉をとても大切にしてきた今までの人生だけれど、実は言葉とあわせて自分が意識的に行うことで意味をもたせることをしてきた。

言葉ばかりに意味や価値をおいてがっかりすることは数限りなくあった。
もしかしたら、自分も無意識にそうだったのかもしれない。

こんな風に行動と言葉で表してもそれを理解してもらえない相手はともかく。

何にありがとうと感謝しているのかは言葉でないと伝えられない。
愛しているならそれを相手に言葉以外でどうしたら伝わるのか。
親子でも夫婦でもパートナーに幸せになってもらうように自分が行動することで結果的に自分の愛や感謝を伝えたいと思うと、表現の方法は無限にあるような気がする。

感謝しているとおりに触れて伝えるたび、相手が自分にとっていかに大切か、相手が自分に与えているかけがえのない影響を再認識する。言葉で伝えることのもう一つのよい影響なのだろうと思う。

学生時代に憧れの人に大学4年間手紙を書き続けて、その人と結婚した友人がいた。彼が送ったのは「手紙」と言う言葉なんだけれど、毎日のように手紙を書き続けると言う行為が彼女の心に届いたのだろうと思う。彼の手紙は「言葉」であり「行動」でもあったのだ。

もちろん、それを相手が「愛されている」と受け取る感性というか共通言語を持ち合わせていなくては何をしても意味はないのかもしれないけれど。

身体を日々動かすことで身体が締まって筋肉がついていくのと同じように、行動という愛情なり思いを伝えるやり方がどんどんと自分や相手の心や暮らしに浸透していくことが信頼を形作っていくのではないかとようやくわかるようになってきた。

今までの一方通行な愛や生き方ではわからなかったことでもある。

改めて誰かを大事にしたり、愛すると言うのは広義の意味での人類愛をのぞいて、愛とはそれほどたくさんの人に深く与えられるものではないのではないと気がつく。

もちろん、子供への愛とかそういうのはまた違う次元なのだろうけれど。
本質はそう変わらないのかな、とも思う。

感謝や愛情にまつわる価値観が同じであることが信頼を築き上げるための基本だから。

言葉が結果嘘になったり、叶わないで終わることがある。
それを無為に責められることも、自分で悔しく思うこともあろう。
行動は相手がそれをどう読み取るかは別として、自らの思いの発露の証としては嘘偽りのないものであるはず。私は、その一点に大きな価値を置いている。

愛の有り様(ありよう)

2014-09-11 14.14.11

先月だったろうか、自分の目指すありうべき姿と生々しい自分の消えない欲みたいなものが共存できないでいるのを改めて感じて、折り合いを付けるにもどうしようもない気分でいた。

挟持すべきものがなんであるのかを見極めていればいいという結論に達しつつ。

こういう悩みは一人でいきていたり、どこかで隠遁生活を送っていれば全くもって感じる必要もなかったろうと思う。目指す自分があまりにもストイックすぎて、実世界の自分と折り合いがつかない。

そんな中でふと思う。
もうそんな人間的な感覚をもって生きるのはやめよう、と。

苦しむのがイヤならば、そんな感覚まで自分を貶めずにいればよいのだと。
人間として、一人の女として幸せだとかを求めるからそのロジックにはまってしまう。

そういう人生を生きている別な存在として自分を見守り、周りと関わり、大事にしていくことができれば、そのロジックに陥ることはない。

私のありうべき姿と競合することもなく、ただ今生をいききるための方便としての自分の心身だと思えるようになってきた。

カミサマノイウトオリを体現していく生き方には変わりないのだけれど、自分の中ではもう少し積極的な体制である。神様が私に伝えるものを待つのではなく、神様が思うであろうことを行動していく、自分がその存在を体現すると言ってもよいのだと思う。

「愛」ということの深さを思うとき、誰かを心から大切にしたいと思えば思うほど、愛をもって何が許せて許せないのか。自分の譲れないものを挟持することにどれくらいの意味があるのか。別に差し迫った問題があった訳でもないけれど、避けては通れない問題だった。

1日瞑想三昧をしていると「菩薩行」と言う言葉が降りてきた。
のこりの人生を「菩薩行」だと思って、生きていきなさいということだと素直に思えたし、そのスタンスでなら「避けては通れない問題」ですら、問題でなくなっていった。

自分の心に常にあるわだかまりや解決すべき問題が限りなく小さくなくなってゆくのがわかる。

人生を味わい尽くすためにのこりの現世での時間をと思っているけれど、魂は人間社会で多くの人が苦しむようなことに悩み苦しむようなことは望まないらしい。

この境地までいけば、のこりの人生で心の平安を大きく乱されるようなことはないはずだから、ずっとこういう心持ちでいられるように、美しい魂でいたいと思う。
次はそばにいる人にいつも穏やかな気持ちでいてもらえるような鏡のような存在であるように。その輪が少しずつ広がればと思う。

この世に生を受けて。

2014-09-09 08.51.56

昔はたくさんの人に祝ってもらったりしたけれど、今年は誰にも会わずインターネットにも接続しないでひたすら己とカミサマと対話した、誕生日。

一瞬刹那のどの瞬間で命がなくなるかわからないのに何を夢見て生きるのか、と思っていた自分が「いきていく」という前提で人生を再構築していくと今まで考える必要がなかったことに自分なりの答えをもっておく必要がある。

今までの定義でいいのか、生き方と生きたいと思う方向に齟齬がないのか、考えていることに矛盾はないのか。

今までは「諦めて手放す」ことで自己解決を図っていた物がそれだとなんだか本質から外れてしまっていたりする。

その一方で、煩悩のない、悲しみのない、安心できる世界に行きたいという願いは途絶えることはない。

「生きていく私」を選択するということは、それらを乗り越えた境地に生きたままたどり着くための何かなのか。

自分のおかれた境地を鑑みる。

去年の今頃私の眼前には「死んだように生きていく私」と「生きていく私」の選択肢があった。この道の先には何があるのか自分では皆目わからない世界を私は選んだのだと思う。

自分の知らない感情、見ないようにしていた思い。「生きていく」ということはこういう感情や思いが胸に交錯して毎日を過ごすものなのだと一年間思い続けてきた。

そのリアルさ故の苦しさや孤独感や幸せや満ち足りた感情が自己の「ありうべき姿」と上手くより寄り添えないときの苦しさは、孤独に最後の1日までを生きながらえるのであれば感じることもないものであったろう。

そんなことよりも生身の人間として味わう感情の豊かさはかけがえのない深いもので、はじめて味わうものへの戸惑いよりもシンプルな喜びに自分が包まれることを知った。
私の選択は間違っていなかった。

今までの人生ではどれほど自分が今この世界に生まれてきた価値があったのだろうかと思う。ただ生きながらえている、ということはこの世界に何か役割を果たしたということとはほど遠い。

ローマ世界を作り上げたような歴史的な偉人程の働きはできないとしても、せめて今生、生あるうちに私がやるべきことは「生きていく」私でしか果たせない何かなはずだ。魂だけの存在ならば容易にできることを、生身の私として実践すること。

要するに見返りを期待せず、惜しみなく、美しく生きるということに尽きるのだから、表面上は昔と変わらないようにも見える。だが全く異なるものである。

今までの人生と透徹した信念と愛情をかけて創り出されるものをこの目でみてみたい。