このブログを書く理由。

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初めてブログを書いたのはいつだろう。まだ21世紀になりたての頃だったんじゃないかしら。あるサイトの「公式ブロガー」としてはじめたのが実はブロガーデビュー。

まだブログって何?位の時代で、私の方が面白いことかけますけど(笑:強気ね)っていう感じで応募した。

オフ会、なんて単語はあんまりまだ使われていないし、一般的ではない頃だけれど、地域のいわゆる大きな事業会社と広告会社が組んだ結構新しい取り組みだったから、私たちは自然発生的にオフ会もしていたし、お題を決めてリンクしあうとか、広告会社が営業で取ってきてくれた会社の商品宣伝ブログも書いていたし、それでいいホテルにも泊まらせてもらった。

一緒に会社を立ち上げることになった人にも出会うことになったのもここだった。

事業がぱっとしなくなったので数年後、ブログは別のところに移設されたのと私が個人で仕事を始めたり、会社を作る時期が重なったのでそこからまた無料のブログに移行した。今度は公式とかじゃないけれど、営業のためだったり、生徒さんのためだったり、自分のブランディングみたいなことがいわれ始めた頃にはブログでそう言うことをやっていた訳で。

だから、炎上も嫌がらせも応援してくださる人のこともひとしきり経験している。

インターネット集客に詳しい人が仲間だったこともあるから、その手のノウハウもある程度なら知っているし、自分でホームページもブログも素人っぽいけれど一応作れるようになった。

自分の思いを綴る、というのがやめられなくて、結局それはそれで続けているのだけれど。

私の書くものはどうしても自分のテンションが移っているせいか、悩みがただたんに多かったからなのか、そう言う「私に似た」と感じてくれる女性の読者の人が常に多くて。ただただ自分の悩みや考えていることを綴るだけで、「前向き」でも「明るく」もない、ただただ「心情の吐露」をしてたような気がする。

自分の今の生き方やありように多少なりの疑問を呈しながらひっそりと生きている人というのは少なくない、ということで。

だから私みたいに、前向きでもなければ明るくもない。解決する訳でもない思考の中で表に出てきたものをただ整理するために出したものを読んで「あぁ、私一人が疑問をもっていきている訳ではない」と思ってくださっているのなら何よりで。

私が学生時代から姉と慕う人のFacebookのタイムラインで大手の雑誌で新たに連載をされるおそらく姉の同級生の方の書き込みを拝見して、このエントリーを書いている。

その方はある人に、「何、伝えたいの。何、したいの。読んだ人にどう動いてもらいたいの!」といわれたことが今回の連載にすごく役立っていると書いていらして。

会社の営業用でも何でもないこのブログに私は何を意味付けるのだろう、どうしてまた書くの?と改めて問い直すことになった。

今回のブログはただの心情を吐露するブログ、という訳でもない。その時、私のブログを読んで自殺を思いとどまったという読者の人が私のブログが広いネットの上にある灯台だった、といってくれたことをふと思い出した。

世の中がますます単純化されて、今目の前にある問題だけがクローズアップされて、俯瞰よりも凝視することばかりに社会が執着している中で、私はもう迷わないけれど、気付いたことのほんの一部分を共有する。こんな風に考えると、見えるものが変わるよっていうことをここにおいておきたいと思う。

そうすることが、周りに話す人も考えを共有できる人もいない人に届いて、本人が何かに気づいたり、安心するきっかけになれば良いとおもう。

私は2冊本を出しているけれど、自分の想像もしないところで深く自分の思いを汲み取ってくれる読者がいることを知っている。顔を見ることも名前を知ることもないけれど、そんな誰かの変化のきっかけをこのブログが担ってくれるならそれはそれでとても幸せなこと。

そのために気負わず、自分の思考と分析の成果の一部を自分の忘れたくない記憶と織り交ぜながら語るように綴っていければと思います。

それが新しい人生、vita illuminata 。

一年前

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一年前の今日、私はこの国にくる準備をしながら、どうしてもいかなくちゃとおもっていたところに行っていた。

どうしても、日本を離れる前にいかないと。
そんな気分で。

ボタンの咲く神社の脇を通り、何時間かけて登ったろう。
道中に小学生の女の子がずっといて行き交う人に何度も何度も「こんにちは」と挨拶して回り、先に登っては「おかあさーん、早くー!!」と呼ぶ姿を見ながら、運動不足だし、不健康な身体でぜいぜいいいながらやっと登りきった。

山頂では座り勝手の良さそうな岩を見つけて20分ほどだろうか、瞑想もさせてもらった。すごく清々しい気分で光が満ちていて。

ご祈祷もあまりお願いすることはないのだけれど、どうしてもしたくてお願いする。
この神社は山自体がご神体なのでご祈祷のするところからも山が見えて、改めて今回無事にお参りできたことを感謝した。

その数週間後から私はこの国に来て、もう一年になる。
思えばあの時から、何かがピンと始まっていた。この国でするべきことも、あの時抱いていた気持ちも目標もなんだか全部するりと自然に変わってしまった。私という外身は同じだけれど中身はいい感じに入れ替わった気がする。

それは大局的にいうと私の願いがかなっているともいえるし、カミサマノイウトオリ、入れ物としていきたいという自分になる第一歩を踏み出せた一年だったともいえる。

大物主さまが私にあの時託したことを、私はちゃんと汲み取って行動できただろうか、大丈夫でしたか?と山にあがってお伺いしたい。

私の願いを聞いてくださって見守ってくださってることに改めて感謝の気持ちをお伝えして、次のお役目を仰せつかりにいきたい。

引き寄せるんじゃなくて。

2014-04-29 18.44.48

言い方の問題かもしれないけれど、最近は「引き寄せ」が大流行りな感じ。
「なりたい自分」も「お金」も「恋人」も。

「引き寄せる」という言い方だから「ハウツー」ものになるし、グッズが売れる。(別に否定してるんじゃなくて、分析です)

前にも書いたけれどスピリチュアルなことにしてもなににしても「事象」は同じで「解釈」の仕方の違いなのだ。だけれど「引き寄せる」という言葉を使うだけで思考が停止して、その方法を聞きたくなるのだから、やっぱりみんな自分の経験値を通して考えるよりも出来合いの解釈がコンビニエンスなのだなぁと思う。

じゃぁ、どんな「事象」または「行動」をして「引き寄せた」と行動する人自身が解釈するのだろうかと思う。何かの行動をした結果、望むべき結果が得られた、またはそのきっかけになる事柄が起こった。っていうことだろうと思う。

その「事象」とか「行動」が「引き寄せる」というのは何を根拠に引き寄せるのかというと「良い行い」であったり「周りや自身が喜ぶこと」。

平たくいうと「あったり前」なことなのだけれど、私自身も含めてそう言う話が好きだ。(そう、私も基本的に好き)

ただ、あまりにも単純化されているし、同じ論法しか続かないので正直飽きる。体験談とかもそんなに変わらないしね。そうなの。この辺り、宗教に人々が求めたり、最近のお坊さんたちがFacebookとかでやっていることとあんまり変わらない。

いつも思っていることは真理というのはたった一つでその説明の方法が違うだけだからどれが自分にフィットするか、ということだけなのだということ。自分の脳みそとか理解力とか知的水準とか感情とかに何がマッチするのかということ。

俯瞰してみたらどれも変わらない。

とはいえ、なのです。

じゃぁ、神の存在とか宇宙の存在は?とか、自分に彼氏ができたわけは?急に金回りがよくなった訳は?仕事がうまくいかない理由は?

「引き寄せ」とか一つの宗教だとあらゆる事象への普遍性がない気がする。だから無理くり解釈する。

神様や宇宙を感じるのにそんなフィルターは何の役に立つのだろう?説明できないことができたときに、考える能力はいつ養うの?

説明できないことが起きたら、解釈が間違えてた、って思うはずだもの。少なくとも私はそう思ってた。

ちゃんとアンテナがたっていれば、その方法論で説明できないことですら、確信に変わることがある。それは自分がずっと直接対話してきたからこその経験値なんだよね。

なんとかコンサルトかもそう。私みたいに隙間な仕事なのに、方法論も経験値も人と違っていて、大局をみながら仕事をしたり生きていると全く話が噛み合ず「??」って感じで3分で失敗したなぁって思う。そう思っているのはコンサル側で、私はそこにそぐわない自分にだめだししてた頃があった。

そんな経験がいくつも重なると、方法論って何なんだろうなぁって思うに至る。
そのメソッドにはまらないことは間違いなのか、例外なのか。でもそれだって真理の一端かもしれないのに?当てはめることが目的になったら、本末転倒じゃないかしら。

引きよせっていわなくても、自らの心身を浄化して良くなってる人もいるし、他人のふんどしを「再解釈」して「引きよせている」ということもあるだろう。

いずれにせよ。
その中で「本質」だと自分が思うものを「方法論」によらずにつかめばいいことなのだろうと思う。運命の人でもお金でも仕事でも。

そのために自分が磨くべきものは、パワーストーンだけじゃないはず。

郵便局。

2014-05-02 16.29.21

小さい頃からお手紙が好きだった。

お手紙を書くのももらうのも。

子供の頃住んでいたお家の小さな赤いポストを何度も何度ものぞいたし、
郵便局のおじさんのバイクの音まで聞き分けられるぐらいの子供だった。

郵便が好きなのか手紙が好きなのか、その頃はわからなかったけれど。

この国に学生時代にきて、近所と学校以外で最初に親しくなったのも郵便局の配達員のおじさんだった。

おおよそ文明的なものからかけ離れた世界で、彼のもってきてくれる手紙や小さな荷物こそが、私のささやかな楽しみだった。

とはいえ、そのころの郵便事情はお世辞にも良くなかったから、送ってくれた手紙だってどれだけ届かなかったかわからない。

それでも、家で何もしていないときは店の前のベンチに座ってぼんやりとおじさんが来るのを待ったものだった。

そう言う訳で子供の頃から郵便が好きなせいか、郵便局に行くとなんだかわくわくする。

何万通もの思いが乗った物だとか手紙が世界中に行くと思うとなんだかたまらなく楽しい気分になる。

楽しい気分でいくからなのか、だいたい郵便局には顔見知りになった仲のいい局員が数人いる。ちょっと世間話をしてみたり、なんだかいろいろ。日本にいると郵便局の代わりにクロネコヤマトの配達のおじさんやお兄さんと仲良しだったけれど。

私がはじめにこの国に来た頃はインターネットなんかもなかったし、どこでも国際電話がかけられた訳じゃなかったから、そういう大層な用事のときにはこの写真の中央郵便局にこないといけなかった。

この天井が高い、古き良きこの国の西洋建築の名残を残した建物は昨年までは通常業務に使われていたけれど、今はそのほんの端っこだけを改装して業務に使っている。

改装が終わると大層な飾りもついちゃったからちょっと感じが変わったけれど、中はあまり手を入れていなくて、おしゃれな窓飾りだとかもそのままに今の業務しているところからもみることができる。

誰かと話したかったり、気持ちを伝えたかったりという意味では古い郵便局には大きな古い駅がもっているようなセンチメンタルな感じがあるような気がする。駅は実際に自分がどこかへ行ったり、相手が帰っていったりするためだから余計センチメンタルだけれど、「物」や「手紙」に思いを託す雰囲気と、駅よりもシステマチックにハンコをばんばん押す音だとか、荷物をがちゃがちゃと積み込む様子が駅とは違った旅情的なものをかき立ててくれる。古い郵便局ってそう言うざわめきをもっていて。

今みたいにあっという間に誰かとつながれる時代、それはスピーディーだし確かだし。とても有り難いんだけれど、古いこの大きな郵便局に来ると、「どうかこれが無事に届きますように」そんな気持ちで投函した、届いたかも返事が来るかもわからないでいた気持ちをふと思い出していた。