絶対かなわない人は誰ですか。

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お写真はこちらから拝借しました。

ジョージクルーニーってステキだなぁと思っておりました。

コーヒーのCM?のはにかんだ笑顔がかわいいらしいなと。
女性にとっても男性の笑顔って魅力的ですし、その笑顔に惹かれる人がステキだなって思うのは自然だと思います。

あんまり映画スターに関心があるタイプではないのですが、独身貴族っぽいイメージから一転、イギリスの弁護士さん(とはいってもとてもお美しい方)とのゴールインは彼の監督している作品(例えば、Good Night and Good luck)やルーツを考えると当然だろうな、と思います。

婚約者の方とも彼がやっている活動を通じて知り合って恋に落ちたんだそうです。

大人な女性がつい「きゃー」と言いたくなる彼が(笑)、「俺は自分よりもうんと優れた人と結婚するんだ」「彼女と結婚できるボクはとてもラッキーだ」と言ってらっしゃると言う記事を読みました。

自分が「うんと優れた人」と言える人との人生ほど、素晴らしいものってないなぁと思う訳です。
社会にはたくさんいろんな人がいるけれど、自分が「この人にはかなわない」と思える、「うんと優れている」といわば完全降伏してしまえる相手と言うのはそういない訳です。

誰かに対して「かなわない」とか「自分よりすごく優れている」と言えるって、ずっとその人を通して自分は何かを吸収したり、学んでいけるわけですよね。
「自分より優れている」と思う人が自分を選んでくれていると言うことは、自分自身にとってもよい影響というか、自信になるとも思うんです。

きっと、そういう風に自分が思って選ぶ相手なら、偉そうにする訳もないはず。

もうひとつ、あんまり頑張りすぎなくなるんじゃないかなぁ。
だってかなわないものがあると知ることで、肩の力が抜けるから。
(釣り合わせようと思うと、必死に頑張るんでしょうが)

お互いがお互いをリスペクトしあう関係だからこそ、彼はこんな風に晴れやかに言っちゃうんだろうなぁと思いました。

友人でもパートナーでも夫婦であっても。
いつも高めあっていける、自分よりも優れた素晴らしい人と人生を歩めていると思えたら何より幸せなじゃないかって改めて思いました。

絵を描くように、身体を動かすように、誰かを抱きしめるように

2014-06-21 15.44.49

ってお知らせのタイトルなの?って感じですね。笑

前のドメインでやっていたブログを統合しました。

記録は成長の螺旋階段のあがってきた過程を感じるものだと思っています。

止むに止まれぬ気持ちで紡いで来た、その時のありのままの私がここにいます。

親友と昔話をするように、たまにさかのぼってもらえると幸いです。

直観に根拠は必要なのか。

2014-07-17 20.00.54

あるとき、何かふと啓示的にアイディアが浮かんだり、「ここにいっちゃだめ」と思ったりした時、何を根拠とすればいいんだろう。

例えば、占星術。例えば例えばエトセトラ。

人間の心はいつだって根拠を求めてしまう。(私だけかもしれませんけれど)

だからずっと長い間「好き」に理由がないことに納得がいかなくて、「ただ好き」と言うことを理解できずにいた。

いつだって何かを描写して把握していたいなんて、考えてみると驕った考えだし、いくら描写して把握したってそれが正しいとも限らないのに。それを根拠だと思った自分は浅はかだというか、それだけ疑り深く成長したのだろうと思う。

例えば占星術を啓示の根拠にしたら、当然その占星術で説かれた内容を検証するのである。もちろんその逆もある。一般的に「今週のあなたの運勢」なんていうのはこの逆のパターンで、占星術こそが啓示であり、その一週間の自らに起こる出来事がその啓示の検証である。

いずれにしても。
人間はその「確証」を得るためにいつも何かを一般化し、抽象化し、そのノウハウを売り物にして来たのだろうと思う。それは失敗したくない、裏切られたくない、損したくない。何でもいいけれど要するに、「スムーズに信じられないから、信じるためにいろんな理由付けが欲しい」のである。

これって考えてみるとものすごくマイナスのベクトルである。

検証しないで何でも信じるのは愚鈍だと思っている私ですら、これくらいは理解できる。(最近理解しつつある。正直に言うと)

それは、ただ犬が自分のしっぽを追い回しつづける行為に限りなく等しいのではないのだろうか。

自らが信じたい出来事が、事実、まさに自身に起こるその一瞬まで「確証」と言うのは真のレベルではあり得ない。

ということは、その「根拠」をいくら検証しようとしたってそれは「未来」を検証することなのだから。時間軸の概念からいくと起こってないものに確証を与えるための検証なんてあり得ない。

最近、身体と魂の関係について再認識をしているところで、身体からの側面から書こうと思っていたことなのだけれど、身体が一番良く知っている、と言うことなのである。

人間の身体はアンテナのようなものなので、いろんな危険、感情、未来、いろんなことを察知できている、と思う。

身体をよく使いこなせる人は精神のバランスがいい人も多い。
「百獣の王と戦う」武井さんと言う人の語る自分の身体を自分がいかに思い通りに動かせないかと言う話は今までの彼に対する認識、身体に対する認識を180度変えるほど身体と意識の関係を明確にしてもらえた。

最近流行っている氷水チャレンジも、彼はさらりとしないと応えていた。

彼は身体と会話して、きちんとアンテナを働かせているんだと納得した。

直観に検証なんて不可能なのだ。だから「その直観を信じる」ということで望むべき未来を引きよせて、事前に危険を察知していけばいい。

私が愚かだったのは、魂も身体も「そうだ」と言っていることに検証したり根拠をほしがっていたことだろうと思う。

それをたった一人で感じていた訳でもないのに。

直観は自分にしか知らされないサインなのに、それを自分が無視してしまったら誰がそれに気付くと言うのだろう。
そうやって、だされているシグナルを無視して何度失敗したかを思い出してみればいいのだ。自分の「頭」がそう言わせているのに、「サイン」だと見間違えることもある。でもそれは経験値によって、または心に正直に見直すことで十分防がれるのだから。

何よりも自分の直感を信じてやることが、何よりも望むべき結果を導く方法なのかもしれないという結論にたどり着いた。

たどり着いた境地

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17歳の時から、出家したかった。
俗世間からはなれて、ただただ禅定を尽くして自己と対峙していきたかった。

そんな私がそれをやめた理由は、衆生である俗世間にいきる人の悩み苦しみがわからないのであれば、自己と対峙して悟りを得ようが意味がない、もっと世間を知らなくては。経験を積まなくてはと思ったからだった。

気がつけばその頃から、自己と対峙して高めていきたい自分と、誰かの役に立てる、社会がよくなるような存在になりたいと思っている自分を見つける。その当時はもしかしたら現実が辛くて、その世界に逃げ込みたかったのかもしれないけれど。

それから25年ぐらいの時間がたって。
出家をするよりももっと複雑な感情と痛みと喜びを感じた日々。

自我やエゴ、欲がなければ世俗社会で力強くいきていくことは難しいと悟った20代から、本当によく悩み、苦しんで来たと思う。

成長の遅い自分とありうべき姿とフィットしきれない社会の中で、あまり妥協することなく、自分の目指す物を不器用ながらによく追いかけてきたと思う。
理解する人は少なかったし、孤独でなかったと言うと嘘になる。

20代の後半から30代半ばまではいわゆる一般的な世俗社会に馴染めなくて、魂が孤独な時期だった。誰かと一緒にいるのに感じる淋しさはもうイヤだ、それなら一人の方がいい、と決めたのが30代後半だった。

その頃にあった出会いで、自分を捨てて生きることを選択してもつことになる。
それからもう何年だろう。【自分を捨てて生きる、エゴを捨てて生きる】と当初思い始めた時のそれは今振り返れば、「自分を捨てたつもりで、ただ孤独に生きる」ぐらいのものだった。
こんなのは誰のためにもならないただの「淋しい人プレイ」であると今ならよくわかる。

「自分を捨てたつもりで生きる」という虚に気がついてから、ずいぶん七転八倒しながら自分を捨てるということを考えてきた。それは仏教に縛られていたことに気がついてようやく、「カミサマノイウトオリ」というあり方を知る。

仏教にはたくさんのことを助けてもらってきたけれど、一番私が最後に苦しんだのは刹那と未来の関係だった。未来を期待しない、次の瞬間の死に取り付かれていたのかもしれない。
だから未来をも所有することなく手放したい衝動にいつも駆られていた。

この辺りの考察は、現世と言う三昧を味わい尽くすというテクストの中で経験として語りたかったのだけれど。大事においておき過ぎてまだ書けていない。

そんな中、自分の役割ということを考えていると、そこでエゴとの葛藤がでてくる。
役割を終えた後の自分を思うとエゴがでる。

自分の役割を熟知しているが故の手放しができるかどうかというところだったと思う。
頭がおかしくなるほど考えて、自分を追いつめて、罪悪感にも苛まれた。

肚をくくって受け入れる、というのはこっちサイドの話なので、楽なのだ。
自分の身を投げ出す。これが何より苦しい。
どうなるかわからない先に投げ出す。

自分を痛めつけるのと投げ出すのと、どちらが苦しいのか正直わからないほど苦しむのなら、もう苦しむのをやめようと思った。

私の人生はもう私のものであって私のものじゃない。
本当の意味での「カミサマノイウトオリ」ってこういうことなのかもしれないということだ。

自分という存在を神様に捧げるような感じかもしれない。
これを出家と言わずしてなんなのだろうと思うけれど。

私自身として挟持する、引けない何かは限りなく小さくなった。
でもそれ以外はもういい。

崖の上から飛び降りたらこんな気分なんだろうなという気持ちで今毎日を生きている。

言いようもない静けさと安らかさの中に自分があることによって、本来の自分をまた改めて見いだしている。

何度も、ありうべき自分の姿に至ったという錯覚に陥ることがこの数年あったけれど、そのたび「いやまだだった」と思い知らされることが起きる。

でももう崖から飛び降りた私に何が起きるというのか。
今はそんな気分でいる。

役割の終わりという関係の終焉

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人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。(森信三)

という言葉は、若い人にも人生に少し疲れた世代にも等しく、人生の出会いの意味を感じさせてくれるものとして魅力的に響くもの。

だけれど同時に、人生にそうやって出会う人すべてを入れておけない。

だから、終焉がある。
役割が終わったとしても、つながっていく関係性はその形をまた変えていく。
親子の関わりなんかはそれにあたるだろうと思う。

縁あって結婚したけれど私のように離婚したあとの方がお互いに理解を示したりすることもある。その関係も役割を終える時期がもう近づいている。

関係というのは相手と自分というに点がないとつながらないからこそ、双方の同意がなく、片方だけでも終わったり始まったりする。

双方の意図が関係ありそうで実はもっとも影響が及ばないからこそ、当たり前に思ったり、大事にできなかったりするのかもしれない。

すぐにこの縁は深くなる、と直観することもあれば、結果そう言うつながりになることもある。

縁(えにし)というものの奥に秘められた役割、いわば業(ごう)についてはもっと思考を深めていくべきことが多いと思う。

土地との縁、人との縁。
切りたいけれど切れない縁、
切りたくないのに切れる縁。

縁あって、前世の業やつながりで今誰かとつながっているのであれば(それがいい関係であれそうでないものであれ)、きちんと全うしたいという思いが日々強くなってきた。

先ほどの森信三の言葉から考えると、自分に与えられていることをきちんと全うすれば、その縁でもたらされた役割も、きちんと全うするだけの時間とうまくやり抜く人間性をその瞬間に備わるようになっていくということなのだろう。

正しいも間違っているもない。
ただその目の前にある縁での役割を全うする。
それが一生のものなのか、ほんのひとときなのか。

誠意を持って人の道に外れないでいけば、その役割の終わりも何もかもちゃんと自然とわかるのではないかなと思う。

年を経ればより賢くなりたいし、軽薄な言葉を聞かされたりしたくない。
自分より年齢も経験も多い人間が軽薄な言葉をいい、不誠実な対応をして表面だけを繕う姿を見ると、よい反面教師としてのお手本を頂戴したことにありがとうございますと礼を言いたくなる。
あなた様のような年よりにはなりたくない、と。

人間としての成長を続ける限り、求めるのは与えられた役割をきちんとこなせる自分。
あらゆることを乗り越えられる自分。
どうしても引けない一点は守れる自分。

えんま様にも神様にも恥ずかしいことはしなかったと報告できる自分。

それは逃げないということだし、肚を決めるということだし、引き受けるということなんだろうと思う。
その縁続くまで。丁寧に。

縁が続くという望外の喜びにいつも寄り添える自分でいたいと思うのだ。
人間は一人生まれて一人死んでいく存在なのだから。

自分にむち打つ。

2014-08-12 18.05.55

私にとって、自分を責めないでいることほど難しいことはない。

人に対する怒りなどより何倍も強い怒りがまっすぐに自分に向くのだから、「自分に腹が立つ」ということを日常的にやっている人ですら、この理解しがたいやり方に理解を示せるかどうかどうかわからない。

私が自分を責めている時は、愚鈍な牛や豚のような家畜をむち打つように、容赦がない。
弱いところを知っているのだから、そこを責め続ける。

えんま様の最後の審判だって、全部見られているその経過含めて問われると言うから、それに近いのかもしれない。

ある時はその決断を、ある時はその愚鈍さを、ある時はその浅はかさを本当に徹底的に責める。

感情や思考を通して自分が自分を責めているにも関わらず、その矛先というか、痛みは身体にでる。
反論すら許されない身体がうめき声を上げる代わりに痛みを感じさせる。

ショックなことがあると胃潰瘍になったりするというのはあながち嘘ではない、私は自分を痛めつけて長くそうやって来た結果の身体の不調にずいぶん悩まされてきたし、前回自分を派手に痛めつけたときにはやはり急な腹痛のあとに出血をしていた。

責めて賢くなるのなら、いくらでも責めればいい。
それが他人であろうと人であろうと。

でも、責めたってその状況が思い通りに変化する訳でも、愚かな自分が急に明晰になる訳ではないのだ。

そうだとしたら自分の心身を痛めつける意味は一体どこにあるのだろうとふと思う。

キリスト教では罪を許してもらうために自らをむち打つという行為をしていたようだけれど。
自分で自分を責めても許しを与えるものと同じ存在が許しを請うべく痛みを負うているなんていうのは、同じような行為だと考えるのであれば欺瞞ではないか、と思ってしまう。

そのような意図すらもたずにただ愚鈍だから、浅はかだからと痛めつけてるという行為には終わりもなければ、達するべきものもない。自らを罰しても痛みだけがあるのでストレス解消にすらならない。

ただただ、魂と身体を滅ぼすだけの行為なのだな、と気付く。

いつだって、魂と思考や感情が同じレベルにないことがこうやって自分を痛めつける原因であることもよくわかってきたけれど、そこでこの歩みをやめてしまえば望むべきところにあがっていけない。

魂と身体を痛めつけることなく、すべてを同じレベルに高めていけるスムーズな過程などないのかもしれない。
とても個人的な作業だからこそ、一人でのたうち回りながら、床を這いずるように自分のエゴや醜い部分と対峙するのだから。

自分を大切にすることと甘やかすことは違う。

どうするのが最善なのかまだ見えないけれど、心身を痛めつけないで済む方法を模索してもいいのかもしれない。
もういい年齢なのだから。笑

周りは自分にそんなに期待していないんだから、という励ましの言葉をもらったことがある。

そのとおり。だからこそ、自分は自分を叱咤激励して期待してやらねば、誰が期待するというのだ。
「お前ならできる」と言ってやり、倒れているところをけり飛ばして立ち上がらせることができるのは自分だから。
何より、そうなりたいのは自分自身でしょう、と肩を抱いて諭してやれる自分でなければ。

日常という作り込みの場。

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私も日々実践していて実感していることを、私の書くものを大事によんでくださっているある人に向けて書こうと思う。

とはいえ、このことは以前から書きたかったことでもある。

私が言葉を教えていた頃、いろいろな事情で離れざるを得ないと報告をくれる人が何人もいた。その人たちに何をどう伝えればよいのかもわからないで、またあえることをと願う言葉しか贈れないでいた。

例えば言葉、例えば身体を鍛えると言うこと。これらは机の前に座って本を開く、またはジムに行くことによてのみ重ねられるのではないということなのだ。

一つは習慣化。
私がこの国の言葉がうまく聞こえるのであればそれはまさしく、習慣化の賜物だ。
音のトーンをそろえるということに注意して発音を続ける。末子音の微妙な音の違いを誰かに始動しているときにやるように明確にクリアにする。

身体を鍛えるのに腹筋を100回やる。スクワットを100回やる。

身体は単純で2週間続ければ、苦もなく毎日できるようになる。だけれどそれを「いかにどこに組み込むか」が継続のみそであり、鍛錬でもある。

決めたことを行う、ということが意外と簡単でないことは誰だって知っている。だけれどやりやすい環境を設定してやるかどうかは自分次第なのである。自分の毎日の生活やパターンを知り、自分の性格をよく見抜けばいい。

学習というのは試験に受かるものでもなく、「止むに止まれぬ気持ち」で何かを学び、それができるようになりたいのであれば「諦める」とか「休む」という概念はないのではないのではないかと思う。

そこにあるのは、その気持ちがどれほどのものかを試されるということと、それ以外のプライオリティーが高いものに対してのエクスキューズが必要かどうなのかに尽きる。

例えばスクワット100回が達成したい何かにどれほど影響を与えるのだろう。話したい言葉でおはよう、こんにちは、今日は何月何日です、今何時何分ですと正しく発音を心がけたりして音読することがどれほど成功の可否を決めるのか。

テキストが開けないならば、記憶を辿ればいい。今まで身につけたものをさらによくしていくことだって立派な学習なのだから。トイレやお風呂、歩きながら。私はそんな風にいろんなものを身につけていった。

日常に組み込めるということはそれだけ自分と切っても切れないものであり、自分が目指すに欠かせないものなのである。なぜならそこには意思以外の何もいらないから。

単純な反復練習や暗記こそが脳を鍛え、自信を与え、判断の根拠をくれる礎になるということは、それを楽しんでやったものではなくとも万人に与えられる甘いご褒美である。

実践しないと見えない境地だけれど、実践することで必ずいける境地でもある。

私がこの国の言葉を教えることに絶望する時、その多くはエクスキューズにもならないエクスキューズを本人の口から聞かされることだ。はじめてあったときに嬉々としながら必要性を語った同じ口が、できない理由を延々と語る。

日常化は自分の覚悟と向き合うこと、必要性と向き合うことでもある。

教える者は強制はしない。
方法を教え、本人の行動を見守るしかない。
人生はその人のもの。
達成するかどうかは本人次第。エクスキューズに埋没するもしないも本人次第。
止むに止まれぬ思いを自分の中に見いだすかどうかも。

たったこれだけのことをいいながら指導をすることすら「スパルタ」で厳しいとなる世の中はどれだけ甘いのだろうと思うこともあるけれど。

私はそんな風に自分を見いだしながら、自分を高めることに何の迷いもない。
人生は有限なのだから。
言い換えれば、どれだけなりたい自分になる、ということに執着できるのかということなのかもしれない。
もしそれがあるのであれば。

使われなかった名前の話

2012-04-24 14.21.46

このドメインになっている名前の話をしておこうと思います。

 hongsarot หงสรถ とこの国の言葉で書かれるこの名前は、神様の乗り物、と言う意味です。

どんな宗教でも神様が乗り物として従える動物がいますが、hongと言うのはこの国の言葉では白鳥や鳳凰を意味します。

自分の生き方をドラスティックに変える時の覚悟として、自分を滅して、神様の意思を反映できる、よい乗り物になろうと思ったのでした。

それが始まりだったように思います。
あんまり大事にしすぎた結果、会社の名前にもなんにも使えないまま、今に至ります。

この国との縁やこれからのことを考えたときに、今後この大切にしすぎたこの名前を会社の名前等にもってくることはないと思います。この写真を撮ったり、名前を辞書で一生懸命考えたあの頃とはずいぶん状況も変わりました。

それでも、このhongsarot という言葉と出会えたことがすべてのスタートだったように思います。
「カミサマノイウトオリ」と言う私の今の生き方の指針が最初に浮かび上がったのもこの単語のおかげでした。

それから数年、この単語について、この単語の示すありようについて自分なりの思考を深めてきたと同時に、この単語は私にとって、自分を顧みるための基準だったように思います。神様に使えるにふさわしい身であるのかどうなのか。恥じない行いをしているのか。

ここに来て、もう少し大きい世界で飛びなさい、そう言ってもう一度空に解き放たれたような気持ちでいます。
もちろん、役割が変わる訳ではないのですけれど。

FacebookをみてもTwitterをみても、昔の人や偉い人のいった言葉でタイムラインは溢れています。
引用に次ぐ引用で、それが偶発的に琴線に触れる楽しさももちろん私も知っているのですが。

私がここに書くことは、もう少し違ったことを目指しています。
かといって、目の前にある日常の喜怒哀楽をただ分析することも私はかけないです。

自分の役割っていうものがあると言う前提で、その役割にそって理解したことを少し抽象化して一般化とまではいかなくても、多少なりとも自分を捜し、生き方を探し、未来を見つめている人なら、世界のありようやいく末のありうべき姿を希求する人ならば、感じてもらえるかもしれない何かを綴ることが、この「神様の乗り物」というドメインにふさわしいのではないかなとも思っています。

自分の思考を通しての気付きだけが真の気付きなので、私のこの文章も私にとっての気付きでしかないのです。
本来は。

ですが先日、うちの女の子が私のあるエントリーをみて「泣けました」とメッセージをくれました。

自分がふと通り過ぎる出来事をもう一度引きよせて感じ直すことができたのだと思います。
そんな風に誰かの琴線に私の気付きが触れるなら、それはよきものが神様の乗り物に乗ってその人の元にいってくれたと言うことに他ならない気がして。

私にとって大切な単語を冠したドメインをここで活かそうと決めた訳です。

私の役割、気付きを通して、あなたのこの世での役割にいい影響やよい気付きがありますように。

孤独なときにこのブログをみて、独りじゃないと思ってもらえたらいいなと思っています。

浄化、メンテ、感謝というサイクル。

心身をきれいにする方法ってなんだろうと思う。

単純に私はシャワーやお風呂に何度も入ることだと思う。
お塩で体中を洗い流せばなおいい。

何度も水を浴びることでの浄化作用って実はバカにならないと思っている。
外の社会で得たもの、自分の中に芽生えたもの、見聞きしたもの、あらゆるものを落とすつもりで洗い流す。

だから私は一日に何度も浴びる。
浄化というのは告解、許しを請うという行為にも似ている。

清浄な自分でいたいという願いもこもっているものでもある。
清浄な自分というのはいろんな意識に偏らない、曇らない眼でみたものを元に思考し、決断できる自分ということ。

自分の身体を愛しましょうとか、感謝しましょうっていうのもよく最近は耳にする。
自分の臓器に毎日ありがとうって臓器にサマ付けしてFacebookに載せられている方もいる。

私にとって、感謝とか愛っていうのはメンテナンスするということとイコール。
だって大事にしてるから、長持ちさせたいし、ありがとうって思っているから、手をかけてあげたい。
すごく自然に生まれる気持ち。

メンテナンスしないってことは愛がないってこと。身体を愛するとか感謝するっていうのは私にいわせるとクリームが一瓶あればいい。全身をあちこちのばしたり、ねじったりしながら、くまなく塗っていると、何が悪いのかわかる気がする。ありがとうございますと言いながら、塗っていけばいい。メンテナンスと保湿で一石二鳥でもある。

これが習慣化していくっていくこういうことなんだろうと思う。
毎日の中に当たり前に取り込まれていくもの。
その結果自らを強く高めていくもの。
だけれど、継続には意思や目的が伴うもの。
目的や意志がないと継続させられないから、これにはある程度の訓練というか積み重ねを要する。

身体との対話、っていえばいいのだろうか。メンテナンスというのはくまなくみる、という役割も備えているから、そう言う気持ちで楽しめるなら、補うべきものが何かは自然とわかっていくはずだ。自分の身体だから。

体内に入れるものの選択もものすごく大切だとは思うけれども、こと「浄化」という観点と「メンテナンス」をサイクルの中に入れることが結果的に心身の安定だったり、いろんなものから自分を守るためには必要なことなのではないかとも思っている。

それは自分の中に聖なる領域を常に生み出す源泉のような行為でもある。

このように浄化された自分が、カミサマノイウトオリな働きができるようにという祈りをこめて。

一時、滝行にひどく憧れて「滝に打たれたーい」と言っていたこともあるけれど、滝に打たれにいくよりも頻繁に浄化されて鍛えられて、コンビニエンスだけれど悪くないな、と思う。

小さい頃から子供は抱いて育てた方がいいっていうし、スキンシップはすごく大事だと言う意見とその反対の意見があるけれど、私は前者がいいと思う。人の暖かみだとかふれられるという喜びは性別や年齢に関係なく人を癒し、安らかな気分にする。だから女の人はエステにいくし、男の人はお姉さんに触ってもらいにいく。笑

愛する身近な人でなくてもいいぐらいなら、自分で自分にスキンシップしてやれば、他人が満たしてくれるよりは少なくても緩まっていくものがあるだろう。そう言うものが必要だってことを自分で実感するのにこのサイクルは悪くないと思う。

自分自身を大切にする仕方、大切な人を大切にする仕方。
言葉ではなく、「何をするか」って言う行動によるんだって言う気持ちは日に日に強まっていく。
それは自分自身に対してでも同じこと。
誠実に、態度で示すこと。自分自身も大切な人もきちんと思いを理解して応えてくれる。

イチローがすごいっていうけれど、それはみんなこういうことが実行できないからだと思う。
彼はその習慣化を幼い頃にお父さんときちんと積み上げてきた。
だから謙虚だし、行き着く先も知っている。
大切なことはいつだってシンプルだ。

当たり前のことにどれぐらい感謝できるのか。

私にないものをあげつらってみたら、意外とこの世代で性別の世の人が当たり前に「ある」もしくは「いる」と思っているものを所有していない。

それが私の存在意義だ、と気がついたのは先週のことでしかない。笑

こんな私が自由で豊かに見えるのは幻想なんだけれど、取引先の私より何倍もお金持ちだったり、あれこれ満たされている人に「あなたって、いいわね」と言われてみたり「あなたが今着ているお洋服のブランドは」なんて聞かれることも一度や二度ではなかったかもしれない。

当時私はこんなたわいもない質問が示す意味が全く分かっていなかったとおもう。

先週、プールで泳いでいたら、小学生の女の子がビート板をもってやってきた。お母さんが付き添い。
彼女が子供用のプールにいても、一番離れたビーチチェアーでスマホから顔を上げないお母さん。

「おかあさーん」と彼女が何度「何秒潜れたか自慢」をしたくて呼んだって、顔すらあげない。

みていると切なくなった。
つった両足をジャグジーでほぐしている私をちらちらとみてはにかむ。

そうこうしていると、ビート板を大人プールに飛ばしてしまった。
彼女は「しまった!」という表情でお母さんをとっさにみるけど、当然みていない。
私が「ダイジョブよ」といって泳いでとりにいった。

「迷惑かけちゃだめじゃない、ありがとうっていって」とお母さん。
私がそばまで泳いでいっても、もちろん何かいう訳でもなく。
その数日後、Facebookをみていたら「夏休み親子教室」にくるお母さん達へのお願いが書いてあった。
スマホじゃなくって子供たちみててあげて。

想像じゃなくリアルな実感として、
安心して帰って眠れる家がある喜び
抱きしめる子供のいる幸せ
十分とは言わなくても好きなものを食べたり着たりする幸せ、

があるっていう喜びを人はどれくらい感じて日々生きるんだろうかって思う。
何年後のことや数ヶ月後のことを考えたら、今の時代ずっと不安だ。
だけど今この瞬間、感謝できることがどれだけあるだろう。

当たり前は変化のないことにつながって、退屈だったり、義務だと感じて窮屈に感じたり、十分じゃないとか、自分がスポイルされると感じてしまいがちだ。

だから、目の前の「おかあさーん」という子供より携帯に目が向いてしまう。
それは日常からのちょっとしたエスケープっていうエクスキューズなんだろう。それもわからないではない。

目の前より隣の芝生が青く感じることは、人生誰でも一度二度経験したことがあるだろうと思う。
でも、それと目の前や現実を抱きしめないっていうこととは話が違うと思う。
自分の今目の前にあることを生ききらなければ、次の世界もよりよい世界もない。

私はもっていないことがものすごく恥ずかしかったし、惨めだと感じていた時期がずっとある。
みんながもっていると見えるものが欲しくて仕方がなかった時だってある。

でも、欲しいと言ってお店で買えるものでもない。
世の中にはそう言うものがたくさんあるし、今しか味わえないかもしれない。

私は「もっていない自分」をきちんと受け入れられて、「もっていない」からこその人生を歩むようにと道を引かれている。それがようやく受け入れられたとき、それが自分にとっての「当たり前」だからこそ、人生を愛おしく感じられるようになった。

そうすると、周りの人にとっての「当たり前」が今までのような「うらやましい」「私にはないもの」ではなくて、その人たちに与えられたかけがえのないものと映るようになった。

できるならその人たち一人一人に「素晴らしいものをお持ちですね」と言って回りたいぐらい。

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私は彼女達の母親をよく知っている。
下の男の子ができたとき、かけがえのない子供たちをこんな殺伐とした街(私が今いるところ)で育てるなんてとても無理だ。そう言って彼女は夫をこの街に残して大きいお腹を抱えて自分の故郷に戻っていった。都会のいい学校よりも何よりも我が子にとって必要なものが何か。彼女達夫婦はちゃんとよく知っている、二人と話してそう感じた。

時折こんな風に「こんなに大きくなったよ」「休みにどこも行かないなら、うちに来ない?」とメッセージをくれる。

この街の片隅で、プロ意識を持った職人の彼女なら田舎で暮らすよりもよっぽど金銭的には余裕のある暮らしができたろう。でも、彼女の選択はすごく早かったし、迷いがなかった。

彼女は目の前にあるものをしっかりと抱きしめている、と感じる。
だからこそ、一介の客だった私にもそんな思いやりを示せるのだ。

すべて目の前にあるのだから、抱きしめて大切にすればいい。それだけなのだけれど、実は一番難しいことなのかもしれない。オンラインに逃げることなく目の前の現実を抱きしめることこそが、自分を抱きしめて、満たして大切にすることだって気がつけば世界は変わるんだけどね。

自分がもっている、かけがえのないものをもってることに感謝する。
ホントそれだけでいい気がする。ありがとうございますって。毎日。毎日ね。

私はある意味とてもよく知っている。
今ある環境が当たり前でないことも、自分が欲しくて得られなかった、
多くの人が当たり前にもっているものがどれくらいかけがえないものかも。

だからこのプレシャスな人生とか世界に全身全霊で感謝する。
その結果得られるものって、想像以上のもの。