名前を呼ぶという言霊の送り方

IMG_5395

Facebookのタイムラインにでていた記事に絡めた気付きの話を。

まずはこの記事を。〜引用ここから〜
ポーラ化成工業は9月30日、普段、「ママ」「△△ちゃんのお母さん」などファーストネーム(名前)で呼ばれていない女性に対して、初対面の人間がファーストネームで呼びかけたところ、愛情ホルモンと呼ばれる「オキシトシン」が増加すること、ならびにストレスホルモンと呼ばれる「コルチゾール」が減少することを見出したと発表した。

同成果の詳細は、2014年12月17日から山口県下関市で開催される「ヒューマンコミュニケーショングループ(HCG)シンポジウム2014」にて発表される予定だという。

女性は名前で呼ばれることで愛情ホルモンの「オキシトシン」の分泌が増えるとのことです。幸せを感じるホルモンが「オキシトシン」とのことです。「オキシトシン」はいろんなカタチで出てくるようです。ふれあったり、スキンシップでも出てきます。いい香りを嗅いだり、体を温めたりしてもでてきます。好きな人から抱きしめられると幸せになるということのようです。そして今回、名前を呼びかけても「オキシトシン」が分泌される発表がでてきました。

こちらから記事の一部お借りしました。
〜引用ここまで〜

私は教えていると名前に先生を付けて呼んでもらいますし、この国ではニックネーム(ねこ)と呼ばれていますが、不思議と私のことを名前だけで呼ぶ人がこの世にほとんどおりませんでした。亡くなった母ぐらいでしょうか。

パートナーがはじめて名前を呼んでくれたときに、なんだか身体の力が抜けるような幸福感を照れくささと一緒に感じたのを今でもリアルに覚えています。ふくれている時に名前を呼んでくれさえすれば機嫌が直るぐらい。笑 

自分を一人の人間として扱ってくれていると感じるとかそういう説明を読んだこともありましたが、今回の記事でかかれている「スキンシップ」や「好きな人に抱きしめられる」ことと同じホルモンが分泌されるという内容が腑に落ちました。

私が持っている「名前を呼ばれる」ことで感じる幸福感はこの調査にあるように「脳」ではなくて「魂」とか「皮膚感覚」での幸福感だからです。ただ、名前を呼ばれるだけなのに、その幸福感は色あせることがありません。

「言霊」として自分の「名前」を考えたとき、自分そのものを音にしたものが「名前」と考えられます。たくさんの思い入れを経て自らに馴染んで来た自分という存在そのもの=「名前」が大切な人の声という「音」で自分の「魂」に運ばれてくるのです。

まさしくそれは「好きな人の声で魂を包まれる」ような心持ちになることは想像に難くなく、相手が自分を思って名前を呼んでくれればくれる程、「名前」=「言霊」のパワーが愛に満ちたものなのだということが改めてわかりました。

ニックネームであれ、ペンネームであれ、多少なりとも自らを映す鏡ではあります。少なくとも私は自分の名前の好悪を超えて、自分がこの名前で生きていくのがよい、愛すべき名前であり、何より人生にふさわしい名前なのだと思えるようになりました。それまでは名前に執着がなく、むしろ名前は適当に変えてしまえばいい、と思っていた私の大きな変化でした。
そのきっかけのひとつはやはり名前を呼ばれて照れくさい程の幸福感を感じたことに端を発するのだと思います。
私は他の何でもない、この名前の波動と魂が一致している、そう気付かされたのです。

言霊と波動、名前の関係はまさしく他人からの愛や好意を自分の中にしみ込ませていく作業に似ています。私が一番苦手なもののひとつですが(笑)名前を呼ばれるということを通して、少しずつ慣れていっているのかもしれません。同時に、大切な人の名前をこれからも愛と尊敬を込めて呼んでいくつもりです。

愛と受容が生む変化という安らぎ

IMG_5413

多くの宗教の言葉には「言葉が最初である」と記されています。

「心」や「魂」あっての「言葉」だろうという方もおいでですが、体感として「言葉が最初」というのは真実な側面もあると思います。

先にエクスキューズをしておきますと、私はソーシャルメディアでよく見られる、「なんにでも、有り難うございます」を言っちゃうのは若干苦手だというのは前に書きました。「書いたり、言ったりすりゃいいってものではない」とは思っています。

実は今私のいるこの国の人は「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人たちが主体です。「こんにちは」って言葉もできて何十年も経てないのだからしょうがありません。「飯食った?」「どこいくん?」が挨拶なのですから。

神仏やご先祖様に毎朝毎夜、1日のお礼やご挨拶をするうちに、ふと思い立ってボスのご先祖様にも挨拶するようになりました。いろいろ言いたいことがあるボスですが、ご先祖様に挨拶するようになると、電話が鳴るたびに「こんにちは、ボス」「有り難うございました」というようになりました。

言いたいことはいっぱいあるので、何年もそんな丁寧さは半減させて接して来たように思います。要するに、気持ちは当初さほど伴っていませんでしたが、そうやってかれに話しかけると心持ちいろいろなことがスムースにいくようになってきました。彼に対する言いたいことは減りはしませんが、私の感情も思いのほか和らいだような気がします。ボスも私に多少優しくなった気もします。言葉は少なくとも自然と柔らかで丁寧になりました。声を荒げることも。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わないこの国の人たちにそういうことの大切さを教えながら躾けてきましたが、残念ながら、心の持ちようまで変わるところまで確認できなかったのは残念なところではありますが。

「ただ、そういっておけばいい」「言えば幸せになる、幸運が舞い込む」では変わり様もありません。

「褒める」「感謝する」「愛を伝える」これは伝えられている相手からするとただの「言葉」なのかもしれません。ただ、この3つの持つ波動の強さはそれを相手がそれを受容した瞬間(それは発する自分がその言葉自体を受け入れるということも含めて)、「ただの言葉」から「大きな力を携えた波動」になり、「言霊」となって自分と相手の中に入り込んでくるのではないかと感じます。

言葉の持つ音と意味が対となり、それぞれがお互いのパワーを高めあい、開いた魂の中に注ぎ込まれていく。

これが「愛」を伝えるということなんだろうと思います。

このつながりこそが「愛」だろうし、「変化」を生み出すすべての根源なのだろうと言うことを今ひしひしと体感しています。

そのつながりの清涼感はどんな荒んだ都会にいても一瞬に森林の奥にある滝へと連れ出してくれるような、魂の安堵感をもたらすべきものであって、そのためには多少なりとも時間も自らの修練も必要となりましょう。

「言霊」と「数字」の持つ意味の大きさはその変化を体感しきらないとわからないのかもしれないと思います。(私も数字はこれから修練にはいります)
大切なことはこれらはいずれも目的であってはならなくて、最終的に望まれる結果、なのだろうとも思います。だから一人心静かに、決意を持って誰に説明するでもなく、ひたすらに菩薩的な愛を持って行う結果、たどり着くこともあろう場所なのだろうと。

実感を伴わなければ、変化は感じ取れません。

自分にとって大切な人。そこがスタート。続ければ続ける程、世界は愛に満ち、望む世界が間近に近づいて次元変化に対応する心身が培われるのだろうと思っています。

先日のタイムラインで(男女が)融合した原点にゼロ磁場が生じるという話を読みました。役割の違う二つの存在が差異を超えて融合する所こそ、エネルギーの発露。正しく対(陰陽)がくみ合わさった地点には時間軸も差異も存在しない。ただそのものとして「ある」。

こんなに素晴らしいことはないなぁと思います。
信頼と真実の証といっていいのだろうと言われている気がします。

だからこそ、その一対が発するエネルギーは美しい世界の創造に費やされるのです。

この世界・リアル・近況

IMG_5334

Facebookもブログもご無沙汰なので、身体を気遣っていただくメールなんかも頂戴してありがたい限りです。

今回はそういうこともあって、近況的なことを。

この数ヶ月ぐらいでしょうか、ずいぶんこの世界について自分なりに勉強をして目が開いたなぁというところがあります。今までは裏返っていたままでいたカードがどんどん開いていく。いろんな人の思惑や想いを歴史的に地域的に見通すという作業をあいた時間にせっせとやっておりました。

世の中には奇想天外な話の方が実は現実だったりします。そういうことも含めて、パートナーに教えてもらったり自分で勉強をしたり、Facebookのお友達の方に教えていただいたりしてきました。

勉強したい、知りたい、わかりたい。そういう私に「わかっている」人たちが決まっておっしゃることがありました。
「考えるな、感じるんだ」

暑い国にいるせいか?よる年波か?理解力はあるけれど記憶力は乏しく(苦笑)、詰め込み過ぎでしょうといわれながら、いろいろなことをつまみ食いしながら、自分なりに感じた結論は呆然とするものでした。
そして「考える」ことや「勉強」ではなく、「感じた」ことが私にとっての「真実」なのだろうと。

何がどうということはここで明かすのは適切ではないので控えますが、人生でそう受けることのない大きさの衝撃を受けました。本当に肩の力が抜けるような無力感がここ数週間ありました。私は外的ショックに強いので、自分の中枢までそのショックが届いてようやく「私は今ひどく混乱しているんだ」と気がつきました。

十分回復したとは言えないのですが、少し今の時点で言葉にしておこうと無理矢理キーボードを叩いています。

予測はしていたろうし、頭ではそう考えていたことを魂や心が「真実」としたときの衝撃の深さは思いのほか計り知れないことでした。

それでも世界は回っていくし、人は生まれ、死んでいきます。

今の私がローマ時代に何かを求める理由もおぼろげながらこの結論と関係があることもわかってきました。

私にとってラッキーなことはこんなドラスティックに今まで当たり前だと思っていたことが崩壊するということがはじめてではないということ、そして今回はそれを理解して共有してその先の未来を語り合える相手がいることが何よりの救いです。

何もかもが倒壊した更地のような心は、モノの見方をドラスティックに転換させます。

感覚的に、でもいろいろな情報ソースや今までの思考の蓄積を経て、私がこのブログに留め置きたいと思っていた「わかった」という感覚のスピードがあまりにも速く、また一般的な人の理解を超えていることは十分承知しているので「わかるように」言語化することに内容の取捨選択だとかいろんな要素が加わることになり、書きづらくなったことも事実です。私の考えを理解して、共有してもらうために前提とする概念や情報が今まで以上に深まって来たとも言えます。

スピードが速くなるということは、その先へと深める時間がとれるということになります。加速して今見るべき事柄や感じるべき事柄を全身全霊で受け止めているとも言えます。

今までのようなブログがどれぐらいかけるようになるか。
今はまだ見えていないのが正直なところです。寝かしているテーマや熟成させているストーリーがいくつもあります。

日々のこういった感度高い感性を維持しながら、若干迷いながら走っているのが今の私です。
その中で今ひとつだけお伝えできるのは「リアル」「現実」「体験」がすべてだということです。
手に触れられること、聞こえるもの、味わえるもの。そういうものを大切にしていくことが人生のすべてであるということ。

肉体の感覚と意識をリンクさせていくことこそが、これからの世界で生きていくための守り刀であり、自らを照らす光であり、「生きる」ということそのもの、すなわち、喜び、楽しみ、味わい、愛で、愛し合うということではないかしらということだけはおぼろげながら。

褒める奇跡と自己防衛

2014-10-30 12.27.42 のコピー

言葉を仕事にしているせいか、やはり言葉が気になる。
これをテーマにしてしっかりと今の気付きをまとめたいけれどもう少し先になるだろう。

昨日のエントリとは若干相反するけれど、『言葉』の持つパワーという大きなテーマの中で私が最も大切にして見つめているもののひとつだから書いておきたくて。

褒めることの素晴らしさについては先日のブログでも既に語ったところだけれど、これに『対』の概念を当てはめるとその『褒める』に対応するものは『ダメだし』なんだろうと思う。

先日、TED の植松さんという方の講演をYouTubeで拝見した。『どうせ無理』という言葉がいかに人生や夢をスポイルするのか、それをしない社会になればもっと人は自由に幸せになる。だからそういう社会を作ろうという話だった。

そんなことは当たり前なのだけれど、なぜかできない。何故なのかというといくつか理由がある。妬みだったりやっかみだったり、怠惰さだったり。だけれど、一言で言うと『無自覚さ』から来るのだと思う。

言葉を発するということ、言葉というエネルギーが相手、環境、自分に与える影響を知らないから、そういうことを言えてしまう。言われた本人よりも自分が返す刀でガッツリ傷ついていることにも気がつかない程、申し訳ないけれど自分の気持ちや魂、体調に気持ちがいってないのだろうと推察する。

身体というのは正直だし、魂もそう。大事な人からそういう『無自覚』にそういう言葉を言われたとき、一瞬で胃に穴が空くし、魂はつぶれてしまう。そういう経験を何度もして来たから言うけれど、そういうときには周りの音など聞こえない。ただつぶれていく音だけが聞こえる。胃に穴が空いて、血がにじむのを感じるのだ。

人間って言うのは残念だけれど、思っている以上に無自覚だし、怠惰な生き物だ。強い志を持っていても弱るし、継続していくことは至難の業だ。だから、自分を磨いて強くして、ただただ『傷つかないような』身体と心を作ることにばかり人生の長い時間を自分を含めてかけていくのだろうと思う。

前回『褒める』という話をした時、誰かを褒められるということは自分の中にその性質が内在している、それを相手の中に見いだすという行為だからこそ、相手だけではなく自らも癒し、安らいでいくという解説を紹介した。

相手の光を見いだす作業と光を消す作業。

私は自分でも人のよいところを見つけて褒める能力が高いと自負していたけれど、自分にそれが内在しているという観点はまるでなかった。これも対の法則で言うとバランスを欠いていたのだろうと思う。褒める言葉、感謝の気持ちを表す言葉は先ほどの『無自覚に相手の光を消すのと全く反対のパワーがある。

褒めたり感謝をした本人である自分が自身に内在しているものに改めて光を当てる。それが言葉となって、場の空気を変え、褒められた相手、感謝をしてもらうような行動を起こした人、その周りにいる人までもその言葉のパワーと波動に包まれる。

10倍返しという言葉を今年は何度も聞いた気があするけれど、そんな感じ。

『ダメ』といわないといわない行をひっそりとしているつもりなのだけれど、これは自分に刃を向けないという行でもある。『ダメ』という対象がなんであれ、その言葉のエネルギーが自身にがんがんと刺さるのを感じるからである。それでも『無自覚』に言い続けると、自分が参ってしまう。

それもそのはず、その『ダメだし』をずっと聞いているのは誰でもない自分自身なのだから。

『ダメだし』をする代わりに、違う対象でいいから『褒める』。(無理してその対象を褒めなくていい)『ダメだし』すべきものと『褒めるべきもの』のどちらにフォーカスしているかいつも注視しておく。意外と『無自覚』に『ダメだし』にフォーカスしているものなのだ。褒めるという行為は自らのヒーリング作用でもある。自分にある美しい部分を相手という鏡を遠して『無自覚』に再認識する行為だからだ。

私はこの言葉のパワーで結果的に大切な人を守りたくて、いつも褒めまくっている。(褒めているのはその人が本当に素晴らしいと心から思っているから)だけれどその実、その行為を通して守られているのは自分なのかもしれないということにはたと気がつくときがある。

魂がぎゅーっとつぶれていく声を聞き、胃から血が流れるのを感じていた程の私がどんどんと自らの中に強さを感じるのはまさに『褒める』ということの奇跡を体感したと言っていいのだろうと思う。強さを自らの中に感じれば、さらにその力で相手を褒めたり守ったり、大切にすることができる。

自分の身近な人を大切にしていたら、いわゆる『奇跡』なんて日常生活の一部になるのかもしれない。

愛は行動。行動のみがすべての結果。
言葉にだすということも立派な行動。
うっとうしいと思われる日があろうとも、自分がそれで癒され、いつか相手にその言葉が伝わる日が来る。
素晴らしく価値のある行動。
どうかあなたもご自身の大切な人に。

語り得るもの。

2014-10-22 17.23.35

あっという間にもう11月に入ってしまった。

先月あたりから、一年かけての変化に加えて新たに関心を持って勉強している領域・思考のスピードや気付きがあいまって言語化するのが追いつかない。

日々のパーツではその気付きの深さではわからないし、その気付きだけ抽出しても普段このようなことを考えていない人にとっては『何のことだろう』ということにしかならない。ある程度誰かに読んでもらうことを想定するには『熟成』という『こなし』がますます必要になって、残しておきたいのに残しておけないという悩ましい状況が続いている。

日々の各論に意味がない訳ではないけれど、包括的に連動して理解をしないと自分を自分足らしめる『軸』というか『芯』にまでたどり着かない。何でもタイムラインやハウツーものや誰かのシェアした情報にコメントを載せているだけでは仕方がない。それだって誰かのコピーアンドペーストなのだから。

タイムラインをみていると、シェアーする人の知識のように、書き込み主の知識のように考えているそれらの知識だって、所詮その多くはどこかからのコピーアンドペーストでその人がいろんな想いや体験をして吐き出したものではない。

まぁ、そういうのが好きな人たちはそれでおててつないで同じ魂なのだろうからそれも由だろう。
そういう仲間に入れなかった自分を『なぜ』と思い続けていたけれど今は入れなかった理由もよく理解していて、これでよかったと思っている。

だから、私のように淡々と考え続けることや違いを持っていくことは大変だけれど、それなりに意味はあるし、多少なりとも私の書くものが読む人の心の中の何かに寄り添えればいいなとおもっている。

だからといって、『あなたの書いていることがわからない』とのたまう思考停止な方にわかるように書くつもりも、言葉を教えているときのように『あなたもすごいね、素晴らしい、愛だね』というつもりもない。だって人生の思考を続けるのは岩山を登るような孤独さがある。
そこに必要なのは小さな明かりやほっと安らぐ温かなコーヒーだったりする。そこにふかふかのベッドは不釣り合いなのだ。

魂の修行をしている同士、お互い頑張りましょうという気持ちでその歩みを進める、気付きをもらうことと、歩みを助けられることとはちがうと思っている。言葉を教えていたときもこういう気持ちが根底にあったから、教えられる側は窮屈に厳しく感じていたのだろうとも思うけれど。言葉の学習にしろ魂を磨くことにしろ、歩みは誰にも助けられないのだ。一歩一歩、自分で決めて進んでいくしかない。

言葉を教え始めて10年程で独自のメソッドを作り上げたけれど、最終的な目標はここだろうと思う。メソッドとはいかなくても、メソッド的な俯瞰した概念を提供できればと思う。私のメソッドは『わかる人にはすごくわかる』方法論でかつ合理的に愛に満ちあふれたものだった。考える習慣を持っている人なら納得できるものになっていたと思う。

私のメソッドでは理解できなくても『その通り』やればできるのですごさがわからない。身に付いているのだけれど、それが『大変さ』を経ないために実感がわかなくて評価されなかった。(マイナー言語だから実践の場が限られていることもデメリットのひとつだった)

だから、今考え続けていることが結果、何かまとめられたとしてもそういう結果だけは招きたくないとも思っている。

わかる人にだけ、しっかりと伝えるべきことを伝えられるように。そのために隗より始めよ、粛々と修練をするに尽きるのだろうと思っています。『行動だけがすべての証』という、私の大切な信条の元に。