「対の法則」幸せの基準

IMG_5904

 幸せにも「対」の関係があると気がついたのは最近のこと。

「幸せにする」「幸せになりたい」と人がいうとき、その幸せの基準はどこにあるのだろう。

「自分が望むべく状態」を幸せと定義したとしても、それが果たして皆同じとは限らない。それは相手を幸せにする、と思っている時だってそういうことになる。

一人で幸せを追求するというのはあまり現実的ではないので、相手のあることとして仮定すると、当然ながら「相手の意向を十二分に叶える」という幸せにする方法と「自分が思う幸せな状況や環境に相手も自分も置かれるようにする」ということがある気がする。

この「幸せの基準」が対であると思ったのは、どちらか片方だけだと上手く行きにくいなぁと思うからである。例えば、相手の意向を叶えたいと思う二人が揃うと、何も決まらない。日々漫然とした「幸せ」を得られるということではいいのかもしれないけれど、幸せを追求するというより幸せに「在る」近い。積極的な「幸せ」ではなく「どちらかというと「満足」に近い。もちろんそれが悪いともいわない。

その一方で「自分が思う幸せな状況・環境を叶えていく」というのは、相手が自分の思うその状況や環境を是としない限り、相手の幸せにはつながらない。双方が「自分が思う幸せな状況や環境」を目指してそれぞれの方向に走れば、「あなたの意向ばかりをきいている」という、幸せというにはほど遠い、不満やるかたない感情が噴出するだろう。一方は、自分の描く幸せに相手も一緒に足を踏み入れれば、幸せになると思って努力しているにも関わらず、である。もちろん、同じ方向を向いて走っていられればよいけれど、ぴたりとその想いが重なるなんて簡単なことではない。

この幸せの定義のちがいに気がついた時、「なんて悲しいことなのだろう」という気持ちが胸に渦巻いた。

家族であれパートナーであれ、相手を幸せにしたい、幸せになりたいという思いが全く別の結果を生むことになるなんて。
どちらのタイプの「幸せの基準」であったとしても、同じタイプの人との幸せの追求には幸せになるということ以外に調整すべきことが多すぎるのだ。

相手の幸せを自分の幸せだと思えるということは何も相手に追従する訳ではない。積極的に幸せにしていくことでもある。でもそれは相手の「幸せ」の形がはっきりあればこそ、又は自分の中で何をすることが相手に幸せを感じてもらえるかをきちんと見極められるか如何(いかん)だろう。

きちんと自分と違うタイプの相手と一緒にいても、どちらかが相手を凌駕することになればまた関係性は変わってしまう。相手の意向を叶えすぎて、相手がダメになるってことは現実に起こることだから。自分の「幸せ」を求める強さにあった相手、相手にあったバランスが必要なのだろうかとも思う。

自分の身近な人がどちらの「幸せ」を望むタイプなのか、自分はどちらなのかを知っておくことは意外と大事なことなのではないか。誰かの願いを叶えることが幸せな人に、何か具体的な幸せの形を求めても困るだろうし、その逆も然りだ。相手が幸せと感じるありようを把握した上で、「幸せ」だと感じられるように歩んでいけることが最善だし、互いが互いをいっそう幸せにしていくという循環を生む。

相手を自分勝手だとか責める前に、果たして自分は、相手は何をもって幸せと感じるのかを見つめてみることはそう悪いことではない。シンプルに「何を幸せと感じるのか」の差異は善でも悪でも是でも非でもない。もちろん性別に帰属するものでもない。

バランスのよく「幸せ」を分かち合い、「幸せ」を「幸せ」と双方が感じられて、感謝できるようになるための一助となるだろう。

Up side Down

IMG_5775

数日前に絶望をしっているものが強い、というはなしをしていて。

絶望を知っているということがどう強いのか、というと「くるりと向きを変えられる」ということなのだと、ある人の著作は教えてくれる。

絶望それは「望みを絶たれた状態」。私が幾度となく感じたし、出来ればもう二度と味わいたくことはない感覚だ。

私にはずっと不思議だったことがある。余りに毎日苦しくて仕方がないのに、「前向き」で「明るい」と思ってくれる周りの人がほとんどだったこと。どれだけ「絶望」をしていたとしても、「希望」と「なすべきこと」を捨てなかったこと。

今思えば、どうやってやり過ごして来たのだろうと思うけれど、それはすなわち「絶望」という底辺にいればこそ、私はいつもそこから抜け出すための何らかの「希望」や「なすべきこと」を結果的に無理矢理握っていたのだろうと思う。

その循環が私を今の状態まで引き上げて生きながらえさせてくれたと言ってもいい。

自分のネイチャーとして自分の魂に感謝しているのは、「絶望」の中で「希望」や「なすべきこと」を決して捨てなかったということだ。自分の魂が純粋に美しく、望ましいものを諦めない魂としてこの世に生まれたことに感謝しても仕切れない。

前にもこのブログで紹介したことがある、「パンドラの箱」のエピソードは私の幼少からの気に入りのエピソードだ。パンドラの箱をあけると様々な悪しきものがごっそりと封印を解いて出てくる。

だけれどその悪しきものが飛び立った後、「私を出して」という声がする。
その声の主に名前を聞くと、「私は希望」そう答えた。

pandora

何度も何度も読んだこの物語が、もしかすると私の深層心理から支えてくれていたのかもしれない、と今は感じる。

そしてそれが正しかったということも。

たくさんの絶望を知った後でしか味わえない甘露があるのなら、それを味わってごらん、と、とっておきの器に入れて目の前に置かれている。

絶望のさなかにあった長い時間、こんな時が来ると想像もできなかった。
だけれど、希望を捨てず、なすべきことをしていたおかげで今がある。

こんな風に生きて来られたのは、私の意思というよりむしろ、魂が「止むに止まれず」私を導いた結果なのだろう、と今は確信している。ということは、私はずっと前から「カミサマノイウトオリ」に、それがいかなる道程であったにせよ、魂に導かれるまま歩いて来ただけなのかもしれない。

鼻歌とにやにや

IMG_5562

新しい生活がはじまってそろそろひと月。
とはいえ、これも中継地点だから「家」があってほっと落ち着くというような環境とはいえないけれど、新しいページを開けたなという感覚が随所に感じられる。

ひとつは鼻歌を歌うようになった。
昔の私はお掃除していてもよくふんふかと機嫌良く歌だか何だかわからないものを口ずさみながらやっていたものだけれど、めっきりそういうことがなかった。あるときふと自分が鼻歌を歌いながら作業をしているのに気がついて、はっと驚いた。
一体何年ぶりのことだろう、と。

鼻歌が出るって言うのは魂が心から安らいでいるという感じがする。フリーランスでやり出した頃から歌がうたえなくなっていたけれど、もしかしたら歌もうたえるようになるのかもしれない。声は私にとって仕事道具であった一方で、どんどんと使えなくなっていった。「話す声が大きくてよく通る」といわれてた10代なんて今の自分ですら信じられないぐらい。

二つ目はくすくすとよく笑うようになった。昔から笑い上戸だし、営業スマイルも得意だけれど一人でにやにやするタイプではなかった。それがどうだろう。夜中にコーヒーを入れながら思い出し笑いをして一人でにやにやくすくす笑っている。一人でシナモンレーズンベーグルをかじりながら、実は私もこれがお気に入り、と幸せににやけていたりする。

相手がいったことを真に受けて笑い話に出来なかったのも少しは出来るようになった気もする。パートナーと些細なことで大笑いしている時、本当に幸せだなぁと感じる。

まるで人ごとのように「はっと」気がついている自分がいる。些細に見えるこの変化は何から来ているのだろうと考える。
ひとえにずっといつの間にかしまい込んでいた「精神的なゆとり」みたいなものが染み出して来たように思う。

私はどちらかというと生真面目で、ちゃんとしておきたい、といつでも誰に対してでも思っていた部分が強いけれど、そのねじのトルクが適正以上に締め上げられていたのが適正になりつつある。(緩めすぎてもいけないけれど)

思った以上にそれが快適で楽しいことなのだと私の魂が味わいながら、私の身体が自分で呼吸をして、「そうそう、私って確かこういう感じ」って今まさに思い出しつつある。

繰り返し告げられること

IMG_5772

昨年末、「どうしてそれぞれのミッションはとうに終わったことは理解しているのに、二人でのミッションに取りかかろうとしないのか」と言うメッセージが届いた。

ぐうの音もでない明確な宇宙からの突っ込みに「よし、始めなければ」と腰をあげたとたんにいろんな良い流れが来て、順調に進んでいるとかんじていた。

それでもまだ「せっかく唯一無二の使命を与えているのに、集中していない」というメッセージが届く。もうその次元で行動しなさい、望むようにいくのだから、はっきりと望みなさいと何度も言われる。

自分が何かをはき違えているのだろうか、という想いが胸によぎる。

もたらされることを自らの力でとりにいくことを求められているともとれるし、また一方でお前の思うようなことはすべての整うべきことの一部分に過ぎないのだから、それに固執しているお前はおかしい、といわれているという気付きもあった。

「とうとうはじまるからしっかりしなさい」ということをちょっと厳しく言われてるだけなのかもしれない。

新しい環境や人の中でひと月ほどの時間を過ごした中で「まだまだやれるし、もっとやれる」と思えたのは、何よりパートナーが私に日々与えてくれた自信の結果であって、今までのように一人でやりたいとか、一人でもなんとかやれるということを意味している訳ではない。

I からWe に舵をきっていく時に余計なことを考えずに行きなさいとも。

とりとめのない文章で結論というほどの落ちもまだ見つからないのだけれど、書かずにいられなかったのは、何かしら大きく噴火するような、卵の殻が割れるような瞬間が一刻一刻と近づいていることを記録しておくためなのか。

明らかなことは、何度でも繰り返し、伝えられるということ。
驚くほどに明晰な形で。

修正されるまで、時が満ちるまで。