心身の基礎体力

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美しい佇まいというのは実は自分の持てる元々の力がしっかりあることが大事なのでは、という最近の気づき。

美しくあるためにはある程度の力(パワー、経験)などがないとやはり美しくなりえない。自分で着物を着付けられるのと、美しく着付けられるのとは全く違う。着物を着つけるのは以外と力仕事で、帯をしっかり締めるにはテクニックも力もある程度必要。そのためには頻繁に着付けないとねっていう感じだと思う。

着物の世界は奥が深いから、それ以外にもたくさんの約束事や覚えておくこともあって、ただそれだけとは言えないとは思うけれど。

日常生活のふとした立ち振る舞いだってそういうことなのかもしれないと思う。
自分の手に余ることを人はたくさんしないといけない毎日では、どうしても自分の持てる力以上のことを無理やりやることの連続なのかもしれない。力があったとしても、疲れていて本調子ではなかったりする日もあるだろう。

家にあるものが溢れるのだって、散らかるのも、家の中に置き場のない、”オーバーキャパシティ”の状態だ。

私たちはそうやって精神的にも物質的にも”オーバーキャパシティ”な世界にいるのかもしれない。インターネットの中ですら、情報があふれてた世界。

”断捨離”という言葉がもてはやされて、皆がものを簡単に購入するのと同じように手放すことを促すようにはなった。
”瞑想”だって、オーバーキャパシティの自分の脳みそや心を少し休ませることだ。

それが日常になるということは、人間の体と同じで入ってきたものを規則正しく出しているだけだ、とも言える。

次の段階では、入ってくるものを減らしたり、より選ぶようになる。
快適な循環のためにはそれがスムースだから。

やらないとどんどん溜まっていく。
嫌になってそれを見てみないふりをしたりもするだろう。
でもそれはまた別の話。

そうやってルーティンとしての浄化、入ってくるものの精査をしたって、自分のキャパシティが大きくなるわけではない。
浄化と美しくある有り様はイコールではないのだ。

毎日同じことをしていても、年を重ねると若い時のように気も心も変化する。若い頃のように、気力が充実した頃のように、行かないこともいろいろとあるのかもしれない。そう感じることを少しでも遅くすることができるとするならば、それは自分の心身の体力作りを怠らないということなのだろうと思う。

例えば、無理やり持った重い荷物をたとえ持てたとしても、静かに置けるのかどうか、”あー重たいっ!”と放り投げないのには自分の体力が必須なのだ。それは最後まで丁寧にやり遂げることに気遣うことよりももしかすると基本的なことなのかもしれない。

人が美しく年を重ねて、より成長しながら生きていくためには、実は心身の基礎体力を少しずつでも高める努力を怠らないことにあるのかもしれない。年を重ねるということがすなわち美しく、賢くなるということではないことは当然のこと。
だから、いくつになっても謙虚に毎日を新鮮に生き続けるというのは自分へのチャレンジとも言える。

寒さの中で凛と咲く梅のように。

 

 

変化の萌芽

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昨日は満月で、いろいろな星の動きを説明する専門家の人たちが、今回の満月はパラダイムシフトのような大きな動きですよ、という。

そういうことを新月や満月のたびに特別な意味を持っているようにいうのがお仕事と言ってしまえばそうともいえる事柄を、受け取る側が自分のタイミングで”これはちょっとスペシャルなのだ”と思うものなのだろうと思う。

とはいえ。
星の動きが多少ならずとも結果的にいろいろなこととシンクロしていることを知っている私としては、今の自分の周りの状況と照らし合わせても大切なタイミングかもしれない。

パラダイムシフトが起こると言っても、それは誰かにとっては精神のパラダイムシフトかもしれないし、なんだろう、何かしらの星の配置や有り様と自分自身、自分の周りの断片がシンクロしていることを私たちは星を語る人たちの言葉から見つけ出しているのだろう。

いずれにせよ、それは私たちの人生や精神に起こるもの”そのもの”ではなく、兆候に過ぎないのだけれど、その徴候っていうのが実はとても大事なのではないかと思う。

徴候、兆候、”きざし”は心静かに目を凝らしていないと見えない。
大きな動きになった時にはもう兆候、とは言えないから。

人には毎日24時間、365日が均等に与えられていて、その中で個人差はあっても皆、”日常”を生きている。その瞬間瞬間を全く想定が不可能なドラスティックな変化と共に生きている人は”日常”を生きているとは言えないが、ほとんどの人が好むと好まざるとに関わらず、自らの”日常”を生きている。

変化の萌芽は自分を取り巻く環境にも自分自身、精神、あらゆるところにある。
それが日常を結果的に変化させ、自らを変化させていくものだとも言える。
武道ではそういう萌芽を”おこり”と呼ぶのではないかと思っている。その”おこり”が小さければ小さいほど、相手に自分の動きを悟られずに優位に戦う機会を得る。

”おこり”を相手に感じさせないということは、逆に言うと自分がいかにその”おこり”を意識しているか、すなわち”変化の萌芽”を認識しているかということに通じるのではないかと感じている。自分の動き、変化の萌芽に無頓着であればあるほど、相手にはそれがよく見える。だから相手に攻撃されてもなぜそういう風になったのかが理解できない。

”おこり”を少なくする、というのは自覚の問題なので、相手に攻撃の隙を与えにくくするのだろう。

”変化の萌芽”は、どこにでも起こりうる。それをどれだけ自覚しているのか、まさにそれはヴィパサナ瞑想などでよく言われる、”自分の一挙手一動を意識する”ということにも通じる。彼らの瞑想のリーディングはまさに、”おこりの意識化”と言っていい。

”今、右足が地面から離れました”
”今、右足の膝が曲がりました”
”今、右足のかかとが地面に着きました”

延々と続く、行動の描写は、自分の体が起こそうとする動きを認識すること。
眠い、疲れたというような自主的ではない動きも、”変化の萌芽”として捕まえて、善悪なく自らの存在を認識しながら自己を解放していく手法だと私は理解している。

萌芽というのは水に投げ込んだ石のような大きなおこりをもって周りにはどうを広げるようなものではなく、もっとわずかで、小さく、謙虚な始まりで、ややもすると見過ごしてしまうようなものだから、それを見い出せるような心持ちを常に持つことが一つ自分の心身の安定性を測るバロメーターにもなっている。

そして、それが見出せた時に、過度に浮き足立つことも、過剰な意味づけをすることもなく、ただ淡々と、変化の萌芽を見つけたら、その先に広がる数多くの選択肢に謙虚に耳を傾け、目を見開いておくしかない。それこそが”カミサマノイウトオリ”に行動するための最善の方法と確信している。

漫然とした毎日であっても必ず誰の生活にも感情にも変化の萌芽はあるはずで、それを見ないふりをしたり、見過ごして過ごすのか、心身清らかにそれらを大切に育てていくのかによって人生は大きく変わるということをずいぶん長い時間をかけて学んできたように思う。

過去を見るのでも、先を見通すのでもない、ただその自身に起こる何かを意識することがいかに自分のスタンドポイントを教えてくれ、守ってくれるものなのかは、おそらくそう遠くない将来に明らかにされていくのだろう。もちろん、私のように何年もかけて明らかにされていくことだってあるのかもしれない。だけれど、それが人生なのだから、それでよかったのだろう。

”萌芽”は無理に見つけるものではない。その萌芽が意味するものが良いものであれ、悪いものであれ、いいや、その萌芽自体に善悪は内包されていない。ただ、自然と目の前に飛び込んできたり、手のひらにちょこんと乗っているもの、ということですら、体得するのに時間がかかったように思う。
実直にそれを求める姿勢がそうさせたのかもしれないけれど、明らかに違うのだと今の私はよくわかる。

以前、パートナーがよく、”状況証拠は全て揃っている”と刑事のような表現で私たちの周りに起こる不可思議な現象を表現していたのをふと思い出した。無意識が”それ、間違いない”という強烈なものを幾つか掴み取っていくことで、私たちは徐々にうまくそれらを捕まえて育てていけるようになったように思う。そうなると初めて外に出ることを許された深窓の令嬢よろしく、自由にあらゆる世界を闊歩するようになるのだけれど、それでも不思議なほど、冷静で穏やか。身体は街を自由に闊歩しながら、意識は暖かい暖炉のそばでコーヒーをいただきながら読書をしているような安堵感に満ちている。

その安堵感は先遣隊のように前もって合図をつかめているからこそのなのだと思う。
私にとって何より感謝すべきは、そばで同じ合図を掴んでいる人がいることなのだろう、そんな日常の積み重ねが私を解放してくれている。