大切な人をどう呼んでいますか

11053055_1154707521211553_6825751994089335884_n

日に日にこの常夏の国も風が涼しくて、気持ち過ごしやすい時間が増えてきました。

この、アップデートの少ないブログですが、名前に関するエントリーは継続的にサーチをされて、訪問されています。

「呼び方」については言霊的な要素と関係性や尊敬を波動として伝える要素があると考えています。

付き合い始めて間もない頃、誰も呼んだことがない呼び方で彼を呼びたい、と思ったことがあります。それは今思えば執著のようなものだったのかもしれません。だけれど、それが全くフィットしない、彼にとってはなく、自分が相手を呼ぶに「ふさわしい」かどうかというのがあると感じました。

「呼び捨て」をすることは親しさの象徴ですし、私も憧れましたが、それもできない。私の相手に対する尊敬がそこに含まれないのです。愛情は含まれても尊敬が含まれない、それが私にとってフィットしなかったと言えるのかもしれません。

フィットしないことはやらない、「敬語でなくてもいいんだよ」と言われてもやはりそれも全部は外れない。その理由はシンプルで、相手に対して距離があるのではなく、愛おしく、尊敬している相手に対する自然な対応なのです。それを崩して近しくしてもそれは「無理」を自分にとって通すだけにしかならないのだと。

あらゆるパートナーがそうであるかというとそうではないかもしれません。自らの資質、相手の資質、年齢、立場、多岐にわたる要素が関係して、何が二人の関係で最善か、が導かれているはずです。

名前で呼ぶということが、言霊に届き、その良質な波動が周囲を満たすことの美しさについては触れたと思いますが、ただ名前で呼ぶことが大事なのではなく、そこに込められる「いとしさ」や「敬意」が自分の魂や相手に対する思いにフィットしているかどうかをよく見極めるべきだ、と今回はお伝えしたく思います。

この国では、ニックネームでも呼ばれない、ただ「マダム」と呼ばれることによってそういったプライベートな関わりから一線を画すことで立ち入りすぎない立場を保っています。(私は逆に彼らの名前をきちんと覚えて、声をかけることで、彼らとの関係を良くしています)名前という言霊「コード」の使い方の一つです。

自分の両親を名前で呼ぶ人がいらっしゃるとも聞きますが、こういう考え方と感覚で生きている私には理解し難い部分です。ですが、いろいろな魂の関係があるので、今(現世)は親子でも昔(前世)は共に戦う同士だったから、それがフィットして双方が最善だとするならそれも良いのかもしれません。

自らの内面を表すのがファッションだと考えたときに「色」にこだわるのと同じ様な気がします。

以前の私は自らの内面を隠す様に、ひたすら「黒」を着ていました。「マダム」と呼ばれる様にするのと同じことです。一方、「白」を着た自分は自身を明らかにしている様な感覚がありました。どちらが今フィットしているか、心地よいのかは自分の中ですぐわかります。誰かを呼ぶとき、その呼び方を通じて発せられることは、相手に対する愛情、リスペクト、自らの人間性を周りの人に向けて発信しているのですから、お洋服と変わらない発信力があるのだということです。

そういう心算で、周りの一人一人にフィットした形でエレガントに接していけたらと、年の瀬に改めて感じています。

名前というのはやはりマジカルなものです。だから名前をコロコロ変えるのはどうかしらと思うし、おざなりにするのも良くない。なんにせよ、名前をつけるときはその名前をつけられるものへの未来と思いをたくさん感じて渾身のエネルギーを込められることが必須で、それができないということはときが満ちていないということなのかもしれないとも言えます。

生まれながらについている名前はそうそう変えられませんから、大事に吟味して、その名前に込められたものを精一杯体現できる様な働きをと思います。そのために外部から与えられる無形の力が「名前を呼ぶ」ということなのではないかと思っています。

 

 

触れることでわかること、変わること。

10341942_10152648772141655_6157633270348469111_n

小さい頃から、仕事帰りの母のマッサージをよくしていた。楽になると言われると嬉しかったし、私たちのような世代はボディータッチを家族ですることがなかったから、母との少ないスキンシップだったと思う。

どちらかというと体が凝るタイプだからマッサージが上手なのだと思っていたけれど、もしかするとなんとなく悪いところがわかるのかもしれない。

人によって差はあるだろうけれど、自分のパーソナルスペースは歳をとるにつれて、かなり狭まっていくのではなかろうか。そのせいか、日本に住んでいるときも極力電車には乗らなかった、というより乗れなくなっていっていたと言ったほうが正しいのかもしれない。

誰かに近づく、そして触れるというのは、親密さと愛情の証だ。
美辞麗句で想いを伝えてもいくら愛情を込めて見つめても、その距離が近づいて触れ合った時、おそらく無意識に相手の想いが伝わって来る。
だから触れ合っていたかったり、だから触れたくなくなったりする。(だからお仕事のテクニックで意識的にそういうのを使う人たちもいる)

どんな行為であったとしても、体に触れてしまうと実はわかってしまうのではないかと気がついた。
もちろん、セクシャルなつながり、手をつなぐ、いろいろなレベルがあり、親しさや性別によって感じ方の度合いが違うことはたしかである。
だけれど、触れると嘘なく伝わって来るというのはあながち間違いではないのではないかと思う。

先日、100歳のセラピストに取材したこの記事を読んで「相手にエネルギーや情熱、時間を費やすことが限られてきている」ことで「ふれあい」が減っている。必要とされ、愛されると感じるためにはふれあいが必要なのに、という言葉にハッとする。

わかってしまうということは、相手にも伝わってしまうということでもある。伝えたいし、知らせてほしい。近くにいる人に対する自然な思いを出す意識的、無意識的な状況が減ることで、人は疑心暗鬼になっていくのだろうか。

毎日、パートナーの体の痛めたところや、コリをほぐすマッサージを続けながら、心身の回復や愛情をただただ願う三昧の境地はトランス的な境地へ私を運ぶこともあった。

パートナーが私の素人ながらの手技で癒されることで、安らいでいく過程、信頼を深めていく過程と同じ工程をやっている側の私にも同じように伝わってきたからこそ、欠かさず続けてこられたのかもしれないと思う。

ここに私の好きな「相即不離」という言葉が意味を持ってくる。
相手が安らぐこと、癒されることと自らが相手によってその状態になることがぴったりと引っ付いた状態で離れることがないのである。

もちろん、そういう状態ができなければ欠かさずできなかったろうし、触れたいと思わなくなったかもしれない。

最近、アメリカでは「ハグをすると風邪予防になる」という論文が出たそうだ。いろいろな社会的な不和状況とハグをする回数が風邪をひく回数と症状に影響するという結果が出た。

つまり、ハグする回数が多いほどストレスが軽減されて免疫力の低下が妨げられたり、幸福ホルモンと呼ばれるβエンドルフィンやセロトニンが出て、ストレスを解放し、安心感をもたらすのだという。リンクはこちら

健康に良い、というのは経験的に感じてはいるが、こういった研究があると自分の感覚と一致していて興味深い。

こうやってつらつらと書き述べてみたが、端的に言うと「好意を持つ人と触れ合うことで、心身に好循環がおこり、その結果心身が安定し、健康でいられて、関係性も良好になる」ということだろう。

その触れ合う相手が人生の目的を共にするパートナーであれば、ますます望む未来やモノを引き寄せるという効果もあるはずだ。触れ合うことで願いを叶える地場が発生するのだ。このスパイラルに入ってしまえば、こっちのモノだなぁと日々感じる。心身一如のその先へ。