カミサマカラノオシラセ

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以前、ブログで”SNSを使って望む未来を引きよせる。“というエントリーを書いたことがある。

今回お借りしてアップしてある写真のような、”すてきな風景で朝ごはん”の写真を見つけては、せっせと保存して目の保養に努めている。ボリューミーなイングリッシュブレックファーストの日も、コンチネンタルブレックファーストの日も、目の前にはため息が出るようなヨーロッパの街並みだったり、美しい自然が広がっている。私にとって美しい景色と朝食ってなんだか幸せな人生の象徴なのだ。五感をフルに喜ばせて、人生の一日をスタートするなんてなんて満ち足りているんだろう、と思うから。

私の写真フォルダには一体どれくらいの写真が保存されているのか。何年もその日を楽しみにしながら新しい写真を見つけて嬉々としてしまう。

カミサマノイウトオリ、バージョン2.0 という暮らし向きが一層自分にとって自然となっていき、宇宙と一体化して今目の前にあることにただ、ありがたいと感謝しながら滅私の気持ちでお支えしていくことに、何の迷いも心配もない毎日。

ただ、カミサマノイウトオリにズルはなし。  のような不安がなくなったとしても、”いつ”というのはわからない。郵便やEメールが届くわけでもなければ、事前にスタートした時に知らされているわけでもない。

明日にはわかる、今週末様子を見て、来週には必ず。

そういう言葉を何年も紡ぎながら、落胆と希望を繰り返し、その日が来るのを待っていたことがある人は少ないかもしれない。何年も。

だってそんなの待ちきれないから、普通。

事前に日程がわかっていたら、それまで好き勝手やって戻ってきたりもできるけれど、”ズルはない”のだ。毎日それを積み上げる。それがカミサマノイウトオリなのだから。

でも、その時がどう来るのだろう、と幾度想像したことかわからない。

想像することで現実が近づくかもと思っていた頃もあった。
今週はとても不思議なことが起こっている。想像とはどれとも違うのだけれど。
何年か越しのアイディアにつながる具体的な人との出会いや出来事がどんどん起こっている。
何度もやりかけてはやめたことも。
やめようかな、と思うと、障害が一つ消えて、またゴーサインがオンになる。

正直、この数年ついぞなかったことだ。

ふと思う。

カミサマカラノオシラセなのかしら?

 

(写真はお借りしました)

優しすぎる、考

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”考えすぎ”と周りから指摘されることがずいぶんなくなったなぁ(かといって考えるのを止めているわけでもないけれど)、と思っていたら、”優しすぎる”と言われる。
ちなみに本人は、自分のことを冷たいと思うことはあっても、他人に優しいとはあまり思わない。

いつも通りの屁理屈を言えば、”優しさ”は相対的なものであって、それが”すぎる”のかどうかという多寡の問題は本人またはその対象によって、たとえ”優しさ”というのが数値化できて、妥当である標準的な値を算出できたとしても、可変的で、”過ぎる”かどうかの妥当性は証明できない。なんていうことをつらつらと言えば言えなくもない。

でも、親しい人がこぞって”過ぎる”というのだから、少し考えてみることにした。”優しい”に”過ぎる”がつくと決して褒められているわけではない。笑 そもそも、優しいってあまり良いニュアンスで昨今使われない気がするのだけれど。

数日後、「優しすぎるとなぜ損をするの」というエントリーを目にした。中身は気が向いたら読んでいただくとして。優しすぎる=損する、というのはどうも人間社会においては鉄板らしい。

自分の周囲にいる人とのやり取りを「得」とか「損」で判断し、「損」にならない程度に自分を守りましょう、と言える人たちと、私の議論の方向性にはかなりの開きがあるので、この手の論考は全く役に立たない。同様に、八方美人だとかそういうのもパス。

ということで、そう言われたきっかけ的なことに記憶を戻してみると。
私の視点から共通して言えることは、対象に対して自分の領域を超えて働きかけをしなかったということだった。

それが周りの人にとっては、”相手の気持ちを慮りすぎて”優しすぎる対応ですよ、あなた!ということになったのかもしれない。

でもそれは実は自分がもうそれ以上踏み込みたくないです、の裏返しなのかもしれない。相手の気持ちがわかるからこそ踏み込まないのか、踏み込みたくないのでUターンするのか、私は断然後者のことが多いけれど、そうは見えないのかもしれない。

だから、たとえ”踏み込んできてください”と言われても踏み込まない。だって自分がそうしたくないのだもの。笑

もし、現状”踏み込まないでください”だったとしても、何かしてあげたい人なら、停止線の枠の外で、救急道具だとか、食料だとか、持って待ってるのが私。それはその人のためではない。自分のため。

相手の気持ちは想像だに難くないけれど、その想像の結果、自分がとる行動はあくまで本人のためというよりは自分あってのことなのだ。そういう行動に値するか否か。あとで後悔しないかどうか。相手の気持ちというのもいろいろ解釈ができるし、いろんな選択肢がある。決して一つではない。

学生時代、優しい言葉をかけた後、慮ってそっとして置いていたのをずいぶん経ってから、”気にかけて手伝ってくれると言ったのに何もしなかった”とおとなしい(と思っていた)友人にずいぶん罵られた。笑 すべきことをしなかったと責められるのは私なのか?という問いが頭に浮かんだけれど、そのときは自分を責めるばかりだった。

メンヘラな人(失礼)には文句の言えないほどの正論と正当性を持って相手が”自分のせいだから仕方がない”というところに落ち着かせて終わらせてもらうことにしている。もしくは一切立ち入らない。私のいったことなど覚えてもないし、理解もしない。何もその通りにできないのだから非難だけされなかったらそれでいい。

私は丁寧に誰かと向き合い、付き合いすることを心がけているけれど、それが優しすぎるということで”損”な役回りを受けているつもりもない。あくまでできる範疇で。それ以外はめっぽうドライなのだけれど、その切り替え部分をご存知ないとそう見えるのかもしれないとも思う。
いろんな経験を経て「決して一線越えさせない」ようにしている。笑

これは誰よりも自分に納得のいく答えがほしかったための自己分析なのかもしれない。画一的に語られる”優しすぎる”と自分の中にあるそれがあまりにも乖離していたことが発端だったのかもしれないし。

あらゆる行動は、カミサマノイウトオリ、だし、滅私でいければいいと思うけれど、前回の話と同様で、”私”という実態を消して生きられない今生は、この身と心を十分に労ってやりながら行かなくては有限な時間を必要なものに使い尽くせない。単純で明確な私の今の生き方。