自分にとっての本質とはなんなのか。

2014-10-26 11.41.21

ここのところ、いろいろなレベルでのインプットが多いせいかアウトプットがスムースでなく、いつもならタイミングでポンポンと書き出してしまうことですら、なんだか文字にするのに迷いがある。話すことですらすべてが「出しゃばっている」ように感じるので、誰かと何気なく話すこともいつもよりも話したあとの感じが悪い。そういうときは言わなくていいことを言い、相手の顔色ばかりみているのもわかる。

日々の記録も含めると結構な量を書くので2日ほど滞ると結構トレースするのが難しく、ブログも書き連ねてそのままのもの、描き終わってボタンを押すといい感じでかけた部分以降がすっぱりとなくなっていたりするので時期ではないのだろうと思って放置している。読むよりも書く方が無理ができない。

私は本質を問うことを自分の中で大切にしている。無意識だけれどもいつもそれを結果的に問うているのだと思う。だから心が動かない、納得できないものは相手やそれを大切にする人の立場にとってありうべき姿を追求する。多面的な理解。

私は家族の中でスピリチュアルな人間でも宗教的な人間でもないとキッパリと言われていた。理由は簡単。関西人が大好き?なお墓参りがものすごく苦手だったからだ。今もあまり得意ではない。母の納骨の際も母が生前いっていた「一心寺さんに」というのは「そんなの聞いたことがない」と一蹴されたけれども、近場だったので結局そこにしてくれた。

彼女の複雑なバックグラウンドや心を通わせられたとは言いがたかった父方の祖父母を思うと、お墓参りにシンパシーが持てないでいたというところが正直なところなのかもしれない。いきていたという事実がなんだか物事を複雑にしている。私はだからそういった縁とできるだけ遠いところにいたいとどこかで思っていたのだと思う。

この国なんかはよほどの家系や中華系でない限り、亡くなった先祖の墓に彼らをたずねるということはない。墓すらない人も多い。川に散骨したり(母は本当はイルカになりたいといっていたので海の散骨もいいといっていたっけ)、寺院の壁に名前と骨が刻まれたり。シンプルでいいなぁといつも思っていた。日本での住まいが日々のお参りみたいなことが日常しっかり行われる地域だから、やれお彼岸のお菓子がどうだとか、なんだか本質ではないところが苦手だったのかもしれない。

ただ、最近になって無性に連綿とした命の流れみたいなことを思うようになった。一人いきて一人死ぬというこの国で心底体感し続けて来たものに、もっと長い時間軸を感じるようになった。だからといって、疎遠だった人たちに打って変わって心新たに手をあわせられるかというとそうではない。

そんなときに教えてもらったのは、連綿とした男女が互いを愛おしいと思いあう連続をへて自分たちが今存在しているということを思い、感謝していけばいいのではないかということだった。私のように血縁にはほとほと縁の薄い人間が「先祖」という存在に感謝できるとすれば、そういう説明が一番腑に落ちる。「家」は「血」を表すけれど、それを感じないでいる人の連綿とした生き様の方が自分にとってシンパシーがあったり、感謝があったりする。そういう人生を生きて来た私にとっては「それでも」手を合わせて感謝したいと思える何かをそこで見いだすことができたならそれは幸せだと。

どこにいるかわからない私に母の分骨してほしいというのをかたくなに断った父の気持ちはわからないけれど、もっと違うレベルの気持ちで私は毎朝手書きした先祖代々の名前に手を合わせ、水と線香を手向ける。
神仏に祈っていたときとは全く違う感覚が身を覆う。

一人いきて一人死ぬという事実に時間軸が加わることで、決定的な孤独は回避されるけれど、自分はその先をつながないのかという自責の念に駆られないこともない。だけれども、「家」や「血」に固執しないのであれば、また「命」をつなぐということが新しい生命だけを意味しないという選択肢がもしかしたらあるのかもしれない。

自分の今生での責務を考えるたびにそういう選択肢を選ばなかった、選べなかった自分も許して理解してやるべきだろうと思う。ずいぶんよく悩んだし苦しんだし、誠実に対処したもの、と。また別のお役目があるのであろうと思うしかない。

そんな中で、「生きる」ということを考える。そういうことを考えながら「美しく」生きるということは結局、心身を美しく清浄に保つということと近しい気がする。それを自分の子ではなくても伝えていけるものとして学んでいく。本質はなんなのか、ということを。

「買ってはいけない」「使ってはいけない」と声高に叫ぶのを聞き、ヒステリックになるのではなく、自分が連綿といただいて来たこの身体を持って、「清浄である」ことに注力すると選択されるべきものは自然とわかってくる。これが本質なのだろうと思う。

美しいものを美しくあるためにありがたくおしいただく。
身につけるもの、体内に入れるものすべてがそうであってほしいと思う。

エキセントリックにではなく、自らの心身をアンテナとして「欲するもの」「ありうべきもの」を「ありがたく」といういき方こそが本質なのではないかという気付き。

そこには主義主張も肩肘張った何かも、陰謀論も社会批判もない。ただ連綿と続く命のリレーの中で自らが美しくありうべき姿を追求し、するべきことをするということに尽きる。

これもひとつの対の法則なのだろうと思う。「今を生きる私」と「連綿と続いて来た命」という対。「生きながらえるということ」と「生きながらえることで次へ残す」という対。

この二つの本質的な対が絡まりあい、昇華されていくのを感じる。

対の法則

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正負の法則というのは神田さんの「非常識な成功法則」をはじめ、美輪明宏さんだってスピリチュアルな視点から正負の法則の話をされていると聞き及ぶ。

どこの国だったか失念してしまったが、正負の法則を日常的な意識レベルにまでもってきているので、いいことがあるとわざと悪いことを起こすのだという話を聞いたこともある。

端的に言うと、陰陽だろうけれど。

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黒と白で描かれているから、どうも善悪と理解してしまいがちだけれど、陰陽とは善悪ではない。この一対を持ってひとつの構成要素として「完全」さを示すものがこの図なのだと私は理解している。

私の好きな仏教用語で「相即不離」という言葉がある。以前も書いたことがあるかもしれないけれど、その二つがぴったりと引っ付いてはなれない状態を示す。属性は違っていても自らが持たないパーツをしっかりと補いあうものがそのもう一方に存在している。そのことによって自分がより伸びやかに活き、相手も自分の存在によってさらに輝く。それこそが「相即不離」な状態であり、私がつねに想い目指す「完全な一対」なのかもしれないと最近強く思う。

正負の法則は陰陽と同じ対なのかと言うと、どうなんだろうなぁというのが今まで人生を生きて来た中での実感である。高みを望む者、望まない者、前世の縁。人生といういつ終わるかしれない成長(とあえて言いたい)を続けている中で短いスパンでの正負は見分けられたとしても長いスパンでのそれをどうやって理解するべきなのか。正負どちらかが起こる前に人生が終わってしまったら?死が法則の正か負いずれかを担うのはわからなくもないけれど、納得するには根拠が弱い。

だけれど対という法則に鑑みてみればどうだろう、と最近思っていろいろと考えを深めている。もちろん正負の法則も何らかの事象なり人なりすべてが対であるという考えの中に包括されると言ってもいいがこれがすべてではない。

大事なことは「いいこと」が起こったからその反対の「悪いこと」が起こるのでバランスをとるという考え方よりむしろ、その「いいこと」と正しく対になる出来事なり存在なりを見つけてセットで考えることができるかどうか、これから起こるであろうを価値づけていけるのかどうかなのだろうと思う。

そうでないと「幸せ」「満足」を得ることでどこかでいつも「不幸せ」や「不満」を感じさせることが出てくるということになってしまいかねない。

望ましい状態が連続して続くことを「幸せの連鎖」と言うけれど、それは上手く「不幸せ」と感じないものやことでバランスをとるからこそ、「連鎖」というサイクルが回転していくパワーを起こすのではないかと思う。

そうでないと、苦労してやっと手に入れた大きな幸せなり存在を失う不安にいつでも苛まれていけないことになる。そういうの、私は耐えられないし、それがイヤだからずっと一人でぎゅっと縮こまっていたのだろうとも思う。

今はその「対」の法則を持って多くの関係性や出来事を分析していくことで、正しい「対」の相手をとらえて出来事に対処することに注意を払うようにしている。

そこには次元上昇といった概念にもきちんと連動されて、自らの今生での役割やなすべきこと、共になす相手も理解できる鍵があるように感じている。

「屁理屈」なのかもしれないし、ただただ、今起こり続ける様々な出来事に対して自分なりの「意味付け」をしていきたいだけなのかもしれない。だけれど、今わかっているのはその陰陽や対の概念での対象物を間違えると、いつまで経っても状況はよくならないし、連鎖を引き起こすことにはなり得ないということだ。

それはそうだろうと思う。磁石でいうところのプラス同士、マイナス同士ではぴたりと引っ付かないのだから。
これを「まぁ引っ付いてるよね」ぐらいでいくと、それは相即不離による一体化のパワーを生み出さないので連鎖にはなり得ない。

だから「これかな」と思っても安心せずにチェックをして「これだね、間違いない」というところまでいかないといけないし「まあいいか」で終わらせないことが連鎖を生み出す原動力となる。

対の法則はまだ自分の中で考え始めたばかりなので、思索と自分の人生を使った体当たり実験でまた何か気付きがあれば、そのときまた。

おかげさまで。

2014-10-09 09.47.40

おかげは陰(かげ)に御という漢字をつける。

御陽はないけれど、御陰なのだ。

御陰というのは神仏や他人の加護、助力によって何事かをなし得るときにその言葉を使う。日本語って言うのは素晴らしい精神性を表現した言葉だ、なんて美しいのだろうと改めて思う。

陽のあたる自分の実績ではなく、後ろや下の部分で見えない尽力をしてくれ、成功に導いてくれた存在がなんにでもある。それを表にだすというか「その尽力、加護により」何事かを成し遂げられたということを示す。

何かと言えば、自分がなし得た実績や成功をショウオフしてしまうしてしまいがち、望んでいた成果ならましてやそうであろう。
優れた経営者が立派であると言われることの由縁はその「御陰」の存在をよく知ることである。自ら一人では何もなし得なかったということをよく知るからこその「御陰さま」なのである。

もちろん、陰の存在が自分でショウオフすることもこの世の中少なくない。だけれども、そこはやはり奥ゆかしくあるのが日本人のあるべき精神性だとも思う。

あなた様のお力あってのこの成果ですと腰低く頭低く、宇宙にもカミサマにも回りにも感謝を示し、「自分がなし得た」ということよりも「御陰」としてサポートして下さった宇宙や神仏や周りの協力を忘れずにまず言及すると言うこと。

何故御陽という言葉がないのか、放っておいても「成功」という形で注目が集まるからだ。主役はあくまで自分。でもそこにあぐらをかくといつの間にか「御陰」が姿を消して成功も永続していかないであろう。バランスの問題。「自分がやった」と言わなくても自分がなし得たことは自分がよく知っている。だからこそ、いつも「御陰さまで」このような成果を得られたと言えることが私にとっては一番自分の心根にフィットしたものとも言える。

人は一人で生きている訳でも独立独歩、何かをなし得る訳ではないのだから。

滅私でカミサマノイウトオリ、カミサマノスルヨウニ、自らの立ち振る舞いをと思うからこそ、この「御陰」という言葉の深さが改めて胸に深まってくる。

自分が変わることで結果的に巻き起こる変化とその覚悟。

2014-10-14 14.24.58

自分の身近な人に堪え難い何かがあるとしよう。又は本人が堪え難い問題があるとしよう。

自分は相手ではないので、その堪え難い何か(習慣かもしれないし癖かもしれない)や問題には直接手出しをできない。
いくら自分に大切な存在でも相手は自分ではない。

変えられない。

これが現実だ。

それを心配してみていたり、イライラしてストレスをためたり、いつかよくなるだろうと楽観するのも一手だと思う。
だがその人が本当に大切なら。
自分は放っておけるだろうか。

ただ相手を非難してみたり、心配しすぎて鬱陶しがられるのもなんだか違う気がする。
すべて自分に持って来たときに、その人の痛み苦しみや悩み、その原因を自分のことのように思えるのか。
「そんなあなたが悪いの」「仕方ないわよ」

と思うなら、私の思う大切とは定義が違うんだろうと思う。
癖であれ状況であれそれは表層であって、それがおこることを余儀なくされた原因が何かしらあるはず。

それを心から感じて、取り除けるなら何でもしてあげたいと思うかどうかだと思う。
人と関わるというのはそういう覚悟があっていいはずだから。

表層ではなく根源を取り去るにはその根源にある心の問題にフォーカスしなくてはいけない。自分の心を見るように相手の心を見ないときっとわからない。その根源がすぐにわかるとも限らない。

その根源が孤独や不信、なんであったとしても行動を持って愛を示すことで相手は変わっていく。

例えばいつも優しい言葉で挨拶を欠かさない。感謝の言葉をたくさん紡いで届ける。褒める。なんだっていい。それを常に心を込めて滅私で相手にし続ける。褒めるという言葉や波動は壊れたDNAを修復する効果があるというロシアの研究があると先日読んだ。だから褒めるのもいい。それで傷ついたものが癒されていくこともある。

いやがられることも、不審がられることも覚悟で、相手がどんなに大切で素晴らしくて愛おしくて、存在に感謝しているかを伝える。病気なんかの好転反応と同じで、いやがられるときもあるかもしれないけれど、いつか何故自分がこうしているかをわかってくれる日を信じて、自分の大切な人にただひたすら尽くす。

いつこれが終わるかわからない。きっと傷の深さによるのだろうと思う。
それだけ長くかかるっていうことは、本人がそれだけ長い間苦しんで来たことの証でもある。
これは私も体験して来たことだからよくわかる。

だけれど、乾いたスポンジに徐々に水がしみ込んでいくように、行動と言葉を通じてかけて来た癒しの力は、あなたの大切な人の辛さを必ずや変えてくれる。それまで根気良く続けられる覚悟があるか、それに尽きる。

相手を変えるのではなく、自分が相手にできる限りの想いと愛を行動で自分を変えていけるかどうか。それにかかっている。
その想いが通じた日、当初の自分の願いであった相手の苦しみが取り除かれるんだろうと思う。

その過程こそが、問題の解決よりももっとかけがいのないものになるということは体験者でないとわからないのかもしれない。ただ、中途半端で生半可にやればもっと悪い結果を招きかねない。

自分に愛があるのか、覚悟があるのか。
問われるのも、変わるのも自分。
あなたとあなたの大切な人の苦しみが少しでも軽減しますように。

気付きと愛、褒めることと褒められること。

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毎日考えて深めていくこと。それは魂を磨きに磨き、曇らないようにしていくことでもあって。
間違いに気付き、ただし、許す。よいところを認め、のばし、一層愛する。その連続。

愛とはなんなのだろう。
溢れ来るやむにやまれぬ暖かい何かが愛なのではないか、と言うのはあまりにもイメージ先行型というか感じている感覚や映像を言葉にしているにすぎないのかもしれないけれど。

愛と言うのは究極に暖かく美しく強い波動なんだろうとも思う。
その溢れる源をいつも感じているし、思っている。

自分がそれを回りに波及させたり届けるにはいろんな方法があると思う。
私は教えることを自分の仕事とし始めてから、「褒める」「いいところを見つける」という才能に長けていることに気がついた。褒めて伸びる人と伸びない人とがいる。
その話はあとにして、私が先日深く感じ入ったあるブログのエントリーの引用をまずはご一読いただきたい。

水晶の家れいさんのブログから一部引用させていただきます。引用元はこちらです。

☆褒められれば心が喜び感情が高ぶります。脳が生きる意欲の「ドーパミン」(快感増幅)を分泌させます。
エンドルフィンといって脳内モルヒネも分泌されて精神的ストレスの解消にも役立ちます。
免疫細胞の防御反応が強化されますから健康には最適なわけです。少しの心がけも自分への躾と考えましょう。自分を褒めたり評価してあげるのは当初恥ずかしかったり抵抗もあるものですが、自然と違和感なく善なる心が発信できるようになるものです。素直な心がそのとき役に立つのです。

☆この話の大切な部分は、これからです。何故意識の快である「褒める」ことが幸福や平安、調和をもたらすのでしょうか。それ実に論理的に出来ています。つまり人間の進化を司る愛の表現のワンシーンだからです。
意識の世界は実学であり人間本源の生命の本質を知る上で新時代には避けて通れないものです。

☆へりくだることが美徳と勘違いしている場合があります。「いえいえ、私なんか…」とはよく耳にする謙遜言葉ですが深層意識からすれば理解不能かもしれません。謙遜はのぼせ上った人には調整としていいのでしょうが、正しく社会活動をしている人がいて周りから評価されているとすればそれはそれで「有難うございます。」で返礼を返せば内外に良い影響が放散します。くれぐれも卑下し過ぎたりへりくだりすぎは深層意識には曖昧ととられますから注意しましょう。正しく評価判断して感謝の念を伝えましょう。

☆自分の善きことを評価し褒めることは意識に明確な快のサインを送ります。瞬時にそれは処理され次なる現象化の礎になります。
自分の善きことも必ず正負同等の価値を含むものであります。それを瞬時に看過し、創造の法則に則ったもので自然で無理のない建設的進歩的事柄であれば次なるイメージが新たに脳裏に浮かぶなり偶然としか思えないような現象が続きます。
評価され褒められ感謝される事柄は、創造の掟に叶ったものであることが望まれます。これが曖昧だと不自然な社会が出来上がります。

☆パートナー・夫婦同士も何かにつけて良いことは褒めてまずいことや悪習は互いに除いてゆきましょう。子供は親の背中を見て育ちます。感情で指導することのないようにしましょう。そして良いことはきっちりと目を見て褒めてあげましょう。

・・・・・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・

心が喜ぶ=ドーパミンが出る=エンドルフィンも出る=精神ストレスが解消=免疫細胞の防御反応が強化=心身の健康にいい。
褒めること=幸福や平安、調和=人間の進化を司る愛の表現のワンシーン
ということが明確に書かれています。

また一方で、「褒めるとは、感謝行であり自分に対する評価の現れです。また、それは鏡の法則でもあり、相手に見る美や徳や感謝は取りも直さず自分の優れた美徳の投影」とも書かれています。

私は仕事柄、多くの人を褒めて来たつもりでしたが、褒めても信じない人、褒めたところにあぐらをかいて何もしなくなる人、褒められたことを素直に感謝して受け入れる人と大きくわけて3種のパターンにわかれました。

「褒めて伸ばす」というのはこの3番目の人にだけ当てはまる手法なのかもしれないと思いましたが、褒め方が今からすると足りなかったのかもしれません。自分にないものを「素晴らしい」と素直に認めて褒めること「よくやったね」と言えることはやはり人間関係の基本です。

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褒めるという単語を聞くと、なぜか高倉健さんの「あなたに褒められたくて」 
というエッセイのタイトルが頭に浮かびます。

あの高倉健でさえ、誰かに褒められたいと願う。
褒められるというのは部分的であれ完全な肯定であり、賞賛です。
その積み重ねが自信になり、感謝になり、ますますよい芝居をしようと思うのか、内容を読んでいないので想像にしか過ぎませんが、このタイトルにはそれだけの想像力をかき立てる人間の素直な想いが出ている気がします。

みんなでなくてもいい、ただあなたが褒めてさえくれればいい。
人間というのはかってなものですから、褒めてくれる相手すら、実際は選んでいるのかもしれません。

私はあまり褒められるようなできた人間ではなかったので、このタイトルには何となく思い入れがあるのもそのせいかもしれません。褒められたいという一心で、なすべきことをなす。それだって立派な目的なのだから。

だから、精一杯、言葉と身体を駆使して褒めるということが必要なんだと思います。
褒めるというのは人生という長いレースの中のドリンクの補給や食べ物の補給だったり、道ばたでの声援のようなもので、その褒められるということを通してまたエネルギーをチャージし、ゴールに向かって進んでいく。

褒めるという行為を通じて人は自分を振り返り、人の魂にエネルギーを注いでいるようで実は自分の魂を磨いているのだと思います。その言葉や態度に人は癒されて、自信をつけ、一人ではないと安心して進んでゆけるのだと思います。

褒めることも褒められることも天秤にかけず、ひたすら自分と相手の美点に気付き、それをのばしていく。
それが魂を磨くという行為=愛なんだろうと腑に落ちました。

美しくありたかった。

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業<カルマ>と一言でいっても何をイメージするかは人それぞれかもしれない。

人生で解消しなくてはならない、目の上のたんこぶのような何かみたいなイメージとか。
いつも自分に立ちはだかる障害みたいな。

私は生きることにまつわる全般がずっと苦手で。
苦手なのに、躾けてもらったおかげだったり、業<カルマ>の昇華のために与えられた性質のおかげでぱっと見そんなことわからないかったかもしれない。

生きることに小さい時から執着がなかったし、「生きている私」がどことなく不自然なのに、「情熱的な人」とみられることへの自分の心の奥とのギャップ。それで孤独感が一層深まったかもしれない。社会や人とのずれ、無理解。

それを業<カルマ>と呼ぶのなら、どうにかするために今生があるのだろうと闇雲だけれども歩んでいた道は間違っていなかったのかもしれない。

どれだけ絶望しても、なぜ生きてるんだろうと思っても死ななかった。
どこからそれでも前に進もうという意志が生まれていたのか、正直今でもよくわからない。

ただ、正しく美しくありたかった。
正しさも美しさも人それぞれなことはよくよく知っていた。
それを超えた基準。

あらゆる「ありうべき」を超えたところにある、エクスキューズのいらない、不安のない正しさ、美しさ。形があるのかもどこにあるのかもわからない、正しく純粋で美しいもの。

人生の主要なパーツでわからないことがあった。例えば、何故この国に何年もいるのか。
だけれど、生まれてからずっと、正しく美しいものを探すための旅だったのなら。

その基準を持って何かをなすために、あらゆる縁を最小限にした形で「見つけるまで、生きてみなさい」と放り出されてこの世に生まれて来たのかもしれない。

業<カルマ>がなんだということよりも、自分の中で説明のつかないものに自分にとってはとても納得がいく答えが見つかったこと、「生きててよかった」と言うより「死なずにここまで来られた」という気持ちでいる。

読んでくださっている人には意味がよくわからないかもしれないですが、今生の役割が明確にわかったところの実感を残しておきたくて。

カプリ島へ想いをはせて

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“Wyspa Capri”. Licensed under Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 via ウィキメディア・コモンズ –

カプリ島は南イタリアのティレニア海に面した面積が10㎢しかない小さな島。
ローマ人の歴史を読んでいると、インペラトールに最初になったのはカエサル、その後継者のアウグストゥスが気に入って購入したのだけれど住むことはなく、後の皇帝ティベリウスがここで治世の半分を過ごす。ローマに住まずしてローマ帝国を統治したのだ。

ティベリウスはもともと優れた軍人だった。一時はアウグストゥスにもかなり大切にされるが、血筋をおもんぱかるアウグストゥスは彼を重要ポストにはしない。だけどその一方でティベリウスを愛する妻と無理矢理離婚させて自分の親戚と結婚させるという政略結婚の道具にもする。

政治的にこれ以上無理だと判断した時、彼は早期の引退を決意してローマからはなれる。しかし、アウグストゥスの狙っていた親族の後継者達が見事なまでに亡くなったり、自身で身を滅ぼしていく。その結果、アウグストゥスは選択の余地なく再度ティベリウスを登用する。

アウグストゥスに選択の余地がないということはティベリウスにとってもない。
やらないと仕方がなくて皇帝になった人がティベリウスなのだ。

彼はカエサル達のような人間的な魅力のある皇帝というよりむしろ、システムを構築して人材を上手くそこに当て込むのが上手な真面目でよく考え、周りの人間や部下の能力や気持ちがよくわかったのだろうと思う。だから、島からローマ帝国を管理することができたのだろう。そう、彼はおさめていたんじゃなくて、管理していたのだと思う。

与えられた役柄をただただ全うする。そこにつきていたのだろうと思う。
だからこそ、先代の皇帝達がされたような神格化や自分の人気取りのような事業や施策は全く行わず、むしろ全否定して淡々とローマ帝国を維持するための行政を行ったのがティベリウスだといってもよいと思う。

どうしてローマでしなかったのか。歴史家のタキトゥスや当時のローマ市民はその彼の態度を非難し続けたけれど、私には自分なりに痛い程よくわかる。

戦場という命をかける場で、人の性質や人心を把握して目標を遂げることと政治は全く違う。彼は人間に傷つき、疲れきったのだろうと思う。アウグストゥスをはじめとする周りの自己中心的な横暴さ加減や、相手の気持ちよりも自分の欲を優先させたりだましあうことを。

ティベリウス自身がその欺瞞的なやり取りの中で踊らされたとしても、自分も誰かに対してやってやろうとは思えない人だったのだろう。自分はやらないし、そういう人やことがらに心を煩わされたくない。だけれど、皇帝という職務は果たさないといけない。男らしい強い人だったのだと思う。

無理矢理愛する妻と別れさせられ、政略結婚の相手と離婚した後の彼は独身を貫いている。全く女性を近づけなかったと言うし、昔の妻を偶然最後に目にした後、二度とあわなかったと言う。

彼のように高潔で責任感もあるが、繊細で応用が利かない人の最終的な選択肢だったように思う。行政的手腕を円滑に発揮することだけに集中する。それ以外のことに心を煩わされたくない。
もう自分の心を壊されるような出来事を遠ざけたかったのだろう。誰に何を言われても。
そうすることでしか、皇帝の役割を無事に果たし遂せないと思ったのかもしれない。

カプリ島の静かな場所で、彼はきちんと自分の役割を果たし、自分の心を守った。皇帝らしくないし、魅力的とは言わないけれどその想いが手にとるようにわかる。

ティベリウスがもう一度その愛した妻か誰かと恋に落ちたなら。
疑心暗鬼から新たな愛を構築することがどれほど難しいかは多少知っているので、そんなことするくらいなら一人の方がいい、と思うのが自然だとも感じる。

柔らかな心が傷つき、ようやく守り抜いたものをまた人にさらすのだから。
今一瞬を生きる、過去の疑心暗鬼も苦しく辛い想いもすべて捨て去ることを愛は要求する。

ティベリウスのいけなかった境地、それはその辛い過去の気持ちや疑心暗鬼すら捨て去るという境地だ。

私は自分にとってのカプリ島に行くことをやめたのだから、彼のたどり着いた境地の先にあるものを目指して歩いている。いつかカプリ島を旧友に会うような気持ちでたずねられたらと思いながら。

 

追記:国際政治学者の高坂正堯先生がローマ皇帝の中でティベリウスに他の誰よりも共感を抱くとおっしゃっていたと言うことで著者の塩野七生さんはこの章を高坂先生に捧げている。