目線をあげて見えたもの。

11667539_883839434987179_564654601219064732_n(写真はお借りしました)

このブログでは何度か姿勢の話を書きました。

姿勢・呼吸・意識付け
姿勢と呼吸、あごを引く

あごを引くことや姿勢によっての変化も含めて実践することによって心に及ぼす影響も少なくないということを身をもって知ることになりました。

丹田に力が入り、肩の力が抜けていくと「姿勢」は良くなるのですが何だかまだ自然な姿勢の美しさとして足りない何かがありました。

私はいままでどちらかと言うといつも伏し目がちでどちらかというと顔が下を向いた、うつむいていたような気がします。日常、仕事で無理にでも上を向いて人と対峙している反動だったのかもしれません。

俯く(うつむく)、は体の状態を示しますが、しょんぼりしていて「うなだれる(項垂れる)」はうなたれる→うなじが垂れる状態から転じて、悲しい時や落ち込んだ時に頭を垂れた状態をさすようになったそうです。語源由来辞典

いくら背筋を伸ばし、あごを引いていてもうなじが垂れてしまっていては元も子もないわけです。

過程、というのはこういうものだなと思います。丹田に力が入っていない時に「うなだれる」ということまでは気がいかなかったり、理解がおよばなかったりするのですから。

コンピューターやスマートフォンといった電子機器をよく使うせいもあって、俯き加減にいることが多いことも影響しています。私も仕事柄10年以上、パソコンとスマートフォンにかじりついて背中を丸めていました。

今はスマートフォンなどの新製品が出ても全く興味もわかなくなり、手元にあるMacBookAirやiPhoneさえ仕事以外では触らないことが多くなりました。つい少し前まで「ガジェットおたく女子」を標榜していたのが嘘のようです。

なので、ステキなカフェに座っていても、ステキな相手が前にいても背中を丸めてスマートフォンをいじっている人達を見ると、「少し前まで自分はこうだったのだな」とよくわかります。

視線を15度上にあげることで、より周りが見え、相手が見え、自分が見えるようになりました。
俯き加減にいた時とは気分も当然変わります。

姿勢や呼吸を整えるということは結果的に目線や気を内に籠らせないでいる最上の状態を常に形成することだという結論に到りました。
気を張ってきちんときれいにいるのではなく、自然で一番リラックスした状態が、結果美しいということでもあります。

内にこもることで曇っていた眼をさらに開いて、美しい有り様を磨いて次にいければと思っています。

足を洗う〜パートナーシップ〜

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写真はウェブからお借りしました。

時代劇の映画を観ていて、武士のご主人が戻ると土間で奥さんが「お戻りなさいませ」と足を洗う姿が美しいなと思っていた。ローマを舞台にしたヨーロッパの時代劇でも、戦士である主人が戻ると妻が彼の足を洗っているシーンがあった。

大切な人の足を洗う、というのは敬意を表すための美しく正しい行為だなと深く感じた。

このブログでも何度も書いているように、100の言葉を紡ぐよりひとつの行動によって示すものに価値を見いだせる同じ価値観の人でないと理解しづらいかもしれない。

今の時代、女の人も強くなって、外に働きに出ている昨今、「そんなのやってられますかいな」という風潮も十分理解している。だけれど、自らが愛し尊敬するパートナーにそんな想いが芽生えないの?と思う。

「足を洗う」とは語源由来辞典によると
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聖書の中にも実は足を洗う話がある。
「ヨハネによる福音書」 13章1節~11節、最後の晩餐の際、イエスが弟子達の足を洗う記述がある。詳細はこちら

昔の道路状況と靴では出先から戻ったらまずは汚れた足を洗うことでようやく「外」から「内」への切り替えをしただろうし、不自由な履物を脱いで足を洗うことで出先での疲れも取ったのだろうと思う。

また、スピリチュアルでは邪気は足裏から出ると考えられている。外で触れて来たであろうものや自らの内部に生じた「邪」なものを水で洗い清めると言う意図があったかどうかは分からない。だけれど、それらを内部に持ち込まないことに結果的に一役買っていただろう。

「足」というのは上下でいうと下、穢れやすい部分と考えられている表現やエピソードはここに紹介しなくても日常的に使っていると思う。

足を洗うということは聖書の中でイエスが言うように、清められる行為、そのものと言っていいのだろうと思う。

話を最初に戻そう。
映画の中で妻が夫の足を洗うという行為に無事の帰宅への安堵と喜びを感じながら、清めることに純粋な愛情と感謝のひとつの表現として私は美しさを感じたに他ならない。

宗教においても象徴的に「足を洗う」という所作が使われているけれど、「家」こそが「神殿」だと思えば同じコンテクストなのだ。だから常に整然と浄化されていないといけない。

「マダムはお花が好きですね」とお買い物から戻ると、周りのローカルの人達がいう(いくらで買ったかも聞かれるけれど、適正な価格で買っているらしい)。清浄で整った場所でないとお花も飾れない。家が神殿だと考えれば、神殿には花を供え、いつも良い気を放つよう心がけられたらとおもうのである。(お花がすぐ枯れるのはその場所に問題があると言うこと。センサーの役目も果たしている)

今の世の中、そんな風にパートナーの足を洗う人がどれだけいるのかわからない。でもたまには感謝の気持ちを込めて背中を流してあげ、心を込めて洋服を洗ってあげることだって、「足を洗う」という感謝に通じるのではないかしらと思う。

近頃、「尊敬」ということを良く考えている。愛情と尊敬。
どちらもパートナーシップには不可欠だと思う。
自分のパートナーに「あなたは素晴らしい」と心の底から言えるパートナーシップを築けていない人達の多いことにふと気がつかされる記事を読んだとき、殺伐とした気持ちになった。「歯磨き粉を歯ブラシにつけてあげる」位のことで、「女は家政婦か」と言われてしまったら、「足を洗う」なんて「男尊女卑」も良いところなんだろうと思う。

「おかげさま」という気持ちを表現してもらおうが、「自分の手柄」にならないことが面白くない人が多いのかもしれない。

自分の手柄がパートナーと彼の成功そのものである、と思えばその気持ちは満たされるのか、と考えるけれどそれもどうなんだろうと私なんかは思ってしまう。

結局、人間は誰かに認められたくて、損得勘定をしてしまうが故に、自分が信じた人にただただ尽くし抜くのは幻想なのかしらん。

結局、尽くし抜くということに対して「損得」ではないにしても何かしらの充足をパートナーによって与えられる、そばにいることで感じられれば、それほど難しくないと思う。(大前提として、お互い深く愛し合っているということがあるだろうけれど)

世界の東西いずれにも、「(主人の)足を洗う」という行為があったということは普遍的な意味合いをもたせても良い気がする。だけれど、時代が変わり、社会が変わると何か根本的な本質を見失い、自らの性差は特長ではなく差別の対象となってしまった。

ただ一人、自分だけのことをしっかりとすることはさほど難しいことではない。それもそれなりに楽しい。ただ、1はいつまで経っても1で、2にも3にもなりはしない。その虚しさを知っている人(一対)だけが、1+1の以上の何かにたどり着くべく淡々と歩めるのかもしれない。

そういう時間を意識的に積み重ねた日常だけが本人達も想像だにしなかったような境地へ足を踏み入れさせる。

陰陽バランス、対の法則

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「腹筋をやったらそれと同じだけの背筋を」と叶姉妹が書いていたのはあながち間違いではないなと思う。

私は何年間も思考や精神的な世界にばかりシフトをしていたけれど、それが自らのバランスを欠く原因になっていたことに気がついてからは随分身体を動かすようになって、その結果それが思考やもう一方の世界にも好影響を与えることを肌身で感じるようになった。

いろいろな病気の原因がスピリチュアル的なものや感情のバランスを逸したことに実は起因しているという記事が最近多くみられるのも今までの人生の中で何度も繰り返し経験して来たので納得することが多かったりする。

身体の右側をいためるとかばっている左側が痛んでくるという経験も身体という組織の中でのバランスを欠いたからに他ならない。

身体と心だけではない、身体の左右、腹筋と背筋、あらゆる組み合わせで「対」となるもののバランスが大切なのだと最近感じている。

腹筋だけをやっていると背筋とのバランスが悪くなって、痛みを引き起こしたり怪我の原因になるかもしれない。それだけではなく、足、腰など直接の部位ではないところに急に痛みが生じたりする。それはバランスを欠いたことが結果的に振動や波動のように他の部位に広がった結果、負担がかかりやすいところ、弱くなっているところに何かが生じる。

何かが何かとして独立して存在しているということはもはやない、ということをもっと認識するべきなのである。

すべては連続してつながっており、何かが変わると波動が共鳴したところから変化を生む。
周りにあるものはすべて固定されたものではなく、自らや周りとの波動によっていかようにも変化し得る。

何かひとつのものに執着しても仕方がないのはそれ故なのである。

自らの波動と共鳴するものが集まった状態こそが「ありうべき」なのかもしれないけれど、それも状況によって変化し得る。

「対」としてみるべきものの組み合わせは常に変化するけれど、その組み合わせだけは間違ってはいけない。

間違った「対」では上手く共鳴しないから、波動が純化してドラスティックな変化を生みにくい。組み合わせをたくさんもっているということは共鳴が鈍化するのと同じことだといえる。

要するに、効果が出にくいし、結果になりにくいということだ。

こういう法則が見えて来たとしてもそれを恣意的に動かそうとしないで、上手く感性と思考のバランスを取りながら行動をして行くことが必要。

目的にだけフォーカスして、柔軟に前向きに愛情と感謝をもって日々を生きる。

感謝も対の法則でいえば、「感謝する」と「感謝される」のバランスが良い方がいい。もう少し「ありがとう」と人様に言ってもらえるようにできればと思っている。(そのためにはもう少し人とコミットしないといけないのだろうけれど)