北風と太陽

旅人のコートを脱がせる勝負をした北風と太陽。吹き飛ばすのか、ぬくぬくさせて脱がせるのか対決。

飴とムチ、アメリカのドラマだとGood cop Bad cop(いいおまわりさんと悪いおまわりさん)

人を本人が望むべきところへ到達させる、または思い通りにさせる対決。

脅すのか甘やかすのか。

最近の風潮は「厳しくしてもだめでしょう」ってことが多い気がする。何かにつけてね。
それも間違いではないと思います。

人生で何度か「お願いします」と言われて誰かのことを見守ることがある。
お願いされなくたって、大事な人のことは見守っている。
丁寧に話を聞いて、本人の願いを理解して。

私はどちらかと言うと太陽型の人で、褒めるの大好きだし、人のいいところ見つけるのが得意だ。
教えるという職業がフィットしていたのもそこだと思う。

だけれど、15年以上の指導経験で学んだことが少なからずある。

現状が辛い、こんなに困っていて傷ついて辛いんだというところにどうしてもシンクロする私は、その痛みを取ってあげようとしてしまう。精一杯評価して甘やかしちゃった人が何人もいる。

もちろん最初はよかった。
傷が癒されたような感じで、前向きになって。

さて、そこからは歩みを進めないといけない。
だけれど、進まない。進めない。何かあると古傷がでてくる。
イメージでいうと「私やせたいの」っていいながらポテトチップ食べている太ったオンナみたいになる。

もうこうなると手が付けられない。
万全に理解してくれる私を知っているから、私は許してくれる、と思う訳である。

私はそうやって何人かの人生をある意味だめにしたんじゃないか、と思うことがある。
甘やかすことが愛情じゃない、と言われたって、あまやかしてほしい気持ちを無視できなかった。

甘やかされることで出来上がる信用を土台にしてあがっていくんだという希望をどれくらい持っていればいいのかわからなくなったとき、「私がいたらもうずっとこの私は悪くない、っていう自己肯定とエクスキューズの無限ループにいるな」と確信せざるを得なくなる。

そこで私が立ち去ったあとの彼らの態度も一様に同じだった。
私は許してくれる。
イイコにしてたらまたチャンスをくれる。

もちろんそんなチャンスはない。
だってたくさんあげたもの。
ずっと待ってたもの。あなたがポテチ食べてる間。

そして激しく私を恨んで憎む。
それでもいいと思う。返す刀でいくべき道に行けるなら。
本来のその人になれるのなら。

もっと上手にできたらと思うけれど、人間は弱いし怠けるし。

自分の経験を通しての最善を提供するだけなのだけれど、人よりも多少?しつこく物事をやり続け、考え続ける私のようなやり方とは土台が違うのかもしれないと思うようになり。

見返りなんて欲しいとも、私が思う通りになってほしいとも思わないのですが、ただただ、本人の願う人生を歩めたらと思うばかりで。

ただ、どちらにとっても時間は有限だし、仕事でも家族でもないなら、やはり別れは来る。
その別れが、成長したからもういいね、と巣立ってくれることも、先ほどのような苦い別れを迎えることも。

どちらにせよ、自分の人生に責任を持って生きる。それに尽きるんだろう。

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不思議な夢の話。

夢をみた。

日本だと基本的に出家したら死ぬまで僧侶だ。
異性と何してもお酒飲んでもビジネスしてもいいんだから、還俗する必要がない。

この国にある仏教だと世俗と言う一般社会からはなれて世捨て人になる。だからもういられなくなったら、黄衣が熱くなったとかなんとかいって、還俗の申し出をする。

その夢をみた。
自分の前に昨年なくなった、私が敬愛して止まなかった大僧正がひょっこり前に座っている。
どうも大僧正のクティ(僧坊)のようだ。

思うところありまして、還俗の許可を頂戴しに参りました。
つきましてはその許可と儀式によい日時をいただきたく、お願いしに参りました。と言ってる私。

大僧正がじっと私をみている。
沈黙がじわーんと広がる。
えも言われぬ感じで感慨深い表情の大僧正。

お前は、25パンサーか。ながきに渡りよくやった。
ここで学んだことをこれから活かしていくのだぞ。

じんわりと胸に熱いものが広がる。
還俗しちゃうんだっていう気持ちと、ほめてもらってすごく嬉しいのとがごっちゃになっている。

大僧正に一つ質問をしてもいいですか、と尋ねた。
どうして私はここに来ることに?

お前とこうやって話すことももうあまりなかろう、といって、私の質問に答えてくれた。

それはお前がここに何の縁ももたなかったからだ。
お前が純粋に魂を磨き、本質、すなわち物事のあり様、学ぶべきことを体得するにはお前は独りにならなくてはいけなかった。
それだけに集中するには、お前の生まれた国や縁があるところでは難しかったのだよ。

もうお前は十分やった。
だからもういくべきところにいって結ぶべき縁を結びなさい。

そう言ったあと、大僧正はお見通しだったとようにふふふ、と笑って
いろいろ腑に落ちたろう、と言った。

日にちをみてやるから、改めて来なさいと言われて
いとまごいをするのに頭を下げている黄衣に身をまとっている我が身をみて目が覚めた。

縁がないことがここにいる理由なんていうウルトラCを誰が考えついたのだろうかとおもう。

大僧正が夢にでてきたのははじめてだった。
一度お目にかかりたい。お亡くなりになるまでそう願っていた方に謎解きしてもらえたことがただ、嬉しく、溜飲が下がった。

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選択肢と想像力の関係

日本のシングルマザーの多くが貧困層だ、みたいな記事がFacebookのタイムラインに流れてきていた。
ソースはこちら

私はここで社会が悪いとか、その女性たちの人生にとやかく言いたくてこの話を冒頭にもってきた訳ではない。一つのスパイラルを如実に表していると直感的に思う。
真偽すら確かでないのではとか、積極的選択かもしれないよねと言うシニカルな一言も封印して何がいいたいのか、というと。

慎ましくと思うとさらに貧するのだろうということ。現実はいかに厳しいものであれ、思考や想像力をそのレベルに限定してしまったら、そこから抜け出すことも、別の世界に行くことも難しい。

自分が想像可能であることの100%全部を使い切ることは難しいのだから、自然とその能力の8割9割ぐらいのイメージしかできないとなれば、現実はもっともっと困窮し、厳しさを増す。私はシングルマザーではないけれど、同じような辛さを経験したことはある。先あるイメージを封印することがどれだけ人間を絶望の縁に追いやるのかは体験済だ。

現実よりも大きなイメージをできなければ、その現実とイメージの間にある、あがることが可能な領域にあがるための階段すらないのである。

自分の今ある状況をフィックスされた、固定化されたものとして考える。雇われている人、人の給料で生活する、何だっていい。そこからしか見えない世界がすべてではないと言うことなのだ。

そこで「よい雇われ人」や「人の給料で生活する自分」となっても、「世界中を飛び回る世界企業の社長」の思考にも「長く続いた貴族に嫁いだセレブ」の振る舞いはわからない。

以前異業種からの転職者ですごくいい地位にいらした方が「そんなことをしたことがないからわかりません」とさらり平然とおっしゃったのに目を丸くしたことがあった。
わからないなら想像しないといけないし、知らないなら勉強しなくてはいけない。

今いる世界から抜け出すのにはそれ相当の準備と努力と心づもり、決心が必要なのだ。

一夜にして大富豪やセレブになるのではない。

プリティーウーマンと言う映画があったけれど、あの彼女なんかまさにそうだと思う。

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エレガンスを兼ね備えた、上質が似合う女性にどんどんと変化するためにはそこへイメージをし続けていかなくてはならない。
彼女はリチャード=ギアのおかげであっという間にリアルな現実が一瞬手に入る。だけれど普通は入らない。でもそれを信じて選択していくって言うことなんだと思う。

そうすると段階的に自分がふさわしい人間になっていくのだ。
自分が先、状況はついてくるのだ。

つましくいようと心がけることは、その精神自体は美しいけれど、幸せなのかどうかはわからない。

並んで同じように支給品を受け取るような暮らしはごめんだと思ったら、いろんなことを思うはずだと思うのだ。目の前にあるものだけをつかんでキュウキュウとするのではなく。

通帳に残高があったら、支給は止められるかもしれないけれどどれだけなりたい自分をイメージしたって支給を止められる訳ではない。

イメージと言うのはたがを外してそのつもりになると言うこれもある程度の継続的な努力をしなくては日々の生活、みているテレビ、話している友達との内容に毛の生えたものでしかない。

現実が厳しくて身体も疲れているから何もできないとエクスキューズするぐらいなら、脳みそぐらいは働かせてもいいんじゃないかと思う。

そんな努力ともいえない自分自身への働きが意外にも大きな選択肢を広げることになるかもしれないのだから。

祈りと誓いによって作られる。

誓いと言う言葉が頭に降りてきたので、辞書で引いてみた。

1 神仏に誓うこと。願(がん)。「禁酒禁煙の―を立てる」
2 将来、ある事を必ず成し遂げようと決心または約束すること。「―を交わす」
3 衆生(しゅじょう)を救おうとする仏・菩薩(ぼさつ)の願い。誓願。弘誓(ぐぜい)。

引用もとこちら

そう言えば私も日本で仕事していた時はわりと日常的に誓いを立てていた。
裁判所での仕事の時だ。

良心に則って誠実に真実のみを語ることを誓います、と言う文面だったような気がする。

それを読み上げて署名して仕事をしていた。

いつもありがとうとか感謝してるとか大切にするって相手に伝えていることは、その気持ちや相手に嘘がないという瞬間的なものだけではなく、これからもそうなんだと言う誠意がこもっているように感じる。

だから菩薩の誓願と言う意味も誓いという単語の意味に含まれているのだろうと考えると何となく腑に落ちる。

よい時も苦しい時もある人生や毎日の中で、変わらぬ愛情や感謝を。
状況が好転したら最善を尽くすと言う決意がその言葉に含まれているなら、それを誓いと呼ぶのが一番フィットする。

祈りが日常の無意識をリードしていくように、日々の感謝を通した誓いも最善へ私たちを運んでいってくれる。
そんな確信。

最善を模索する上での思考と行動

ここの所いろいろな気付きがあって、書き残しておきたいことがたくさんあるのですが。

大切にするべき人を大切にするということ。
伝えなくてはいけないことを伝えるということ。

愛情は態度と言葉で。

深い感謝が自分を連れてってくれる境地は、どんな修行よりも甘く有り難い境地だとと思うことがあります。

先日、この一年は、今まで生きた一年の中で一番いろんなことに感謝して、愛してるって愛してる人に言って、また自分も言ってもらえた一年だったと気がつきました。

愛しているっていう言葉が重いから言ってはいけない言葉だったことも、「ごめんなさい」「ありがとう」と言えば済むと思ってと叱られたことも全部通り抜けて、その言葉が本当に華のように開いていくのを感じました。

このさきにあるものこそが最善なのだろうと思います。
精進が辛く苦しいものであった時期は過ぎ、大切にすべき人を大切にと言うことを行動で示してさえいれば、辛いこともいつか最善に向かい、そこに落ち着くのだろうと。

いろいろな気付きの中で、これが最もベーシックで、何度もたどり着いた深い境地です。
だから、またこれからも何度もここに戻ってきては、深めていけたらと思います。

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レンタルサーバーを移行したかっただけなんだけれど、なんだかぐちゃぐちゃっとやってしまった。
丁寧にとってあったはずのバックアップがうまくアップされない。古いものじゃなくて新しいものに光を当てる〜illuminate〜する日だからいいか、と思って。

ということで違うドメインで再開します。
結果的に、思い入れをもってずっと大事にしていたドメインで再開することになったのはよかったのかも。
このドメインの話もしますね。

今日の空はすごく抜けた明るいよい空です。

何か考えがまとまったときに、見てもらえる人の多いすくないは別として、書いてだす場所がないのがすごく落ち着かないと気がつきました。

仕事用のブログをやっていた時は、考えたことを書けなくてなんだか悶々としていたのも今は昔。

ネット速度とリア充

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インターネットの速度が一番速いのは香港・韓国でその次が日本だという記事を見た。
私が今いるこの国も東南アジアの中では早い方だろう。
ところがこのリストにEU諸国が意外と入っていないのが驚きだった。(ベルギースイス辺りがランクインしていたと記憶)

イタリアだとかフランスだとかだけでなく、アメリカも10位以下でランク外。
その理由はなんなんだろうと考える。(もちろん、国土の広さとかね、いろいろあると思います)

「早い」=「よいこと」だという価値観に私たちはずっと浸されてきている。
だからどんどんと早いサービスに乗り換え、対応機種に買い替える。

どうしてそんなにずっとFacebookやTwitterをみているんだろう。
LINEが既読になっていたらどうして返事しないで放っておくと、「怒っている」と思われないといけないのだろう。

社会がオンラインとオフラインの境をなくしてしまっているからなんだろうと思う。
誰かとご飯食べている写真をあげてないと「リア充」じゃない感じに見えるからなのかもしれない。

既読になってすぐ返事しないのを怒っているととらえるのは、そんな状況大人ならよくあるっていう想像力が欠如しているってことなのだろう。

でも、誰かとご飯を食べている写真をあげることが果たして本当にリアルにオフラインが充実しているってことなのか。
私は大切な人と楽しいご飯を食べていたら、幸せな時間を過ごしていたら、FacebookにもTwitterにもあげない。
それよりも目の前にいる人と全力でいい時間を過ごしたいと思うから。

あるお店が「うちにWi-Fiがないのはいい食事といいおしゃべりの時間を味わってほしいから」って書いていたけれど、そういうこと。
目の前にいる人、大切にするべき人を大切にするっていうことってそういうことなんじゃないかと思う。
そういう時間をどれくらい持てているのかっていうことが、プレシャスな人生にとって必要で、現実世界が充実して満ち足りている(リア充)人生なのじゃないかなぁって思う。

だからもしかすると、フランスとかイタリアだとか、美しい景色が身の回りにあって、夕方集まってワイン飲んでおしゃべりしている(イメージ)のあるところではインターネット速度なんて生活のプライオリティーの上位には入らないのかもしれない。

ビジネスの世界でも趣味やアートの世界でも「インプットとアウトプット」ということがよくいわれる。
アウトプット過多になるということは、インプットが追いつかない状況を得てして生み出す。

ビジネスでもアートでも「止むに止まれぬ思い」っていうのは、オンラインではなく、自らの体験や思索や感情から発露するもので、それを何らかの方法でだしたい、と思うのが本来のアウトプットであるべきだ、と思っている。ということは、もっと感じないといけない、っていうこと。

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最近、最も苦手だと思っていた絵をはじめた。
これは「はじめよう」と決めた訳でもなんでもなく、自分の溢れる何かを言葉以外のもので表現したいという「止むに止まれぬ思い」がある日私にペンを持たせるようになった。

モノの見方や感じ方が変わったことをリアルに感じながら、描く対象を見つめる、空を眺める。そうやって自分の変化を感じることこそが生きているという実感にもつながる。

画面の前に座っているよりも、ヨガマットをひいて自分の身体と対話する楽しみ。
筋肉がついていく楽しみ、身体がのばされていくことで癒されていくもの。
これもいつの間にか欠かせない習慣となっていくと何より満ち足りた時間で、やめられなくなっていく。
誰に指示される訳でも、気を使う訳でもなく、ただ自分の身体を追い込んだり対話したりする時間は当たり前なんだけれど贅沢だと感じる。

誰かの書いた文章に「いいね」を押して得られるものとは全くレベルの違う充足感。
言葉にならないものの価値や意味を改めて大事にできる瞬間。

もちろん、FacebookもTwitterも交流の場や気付きを得られる場として本当に楽しいものなのだけれど。
どんどん、iPhoneをしっかり握りしめていた時間が遠のいていく。
何かあるとのぞいていたSNSをだんだんとみなくなる。
ガジェット大好きだった自分はもうここにはいない。

できることならパソコンもiPhoneも全部捨てて生きたいよね、なんていうはなしをしていることがある。
全部捨てると仕事ができないので(苦笑)、たまにMacBookを開けるぐらいでいい人生を送れるようになったらいいな。

変化をどう定義づけるのか。

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最近、自分の中で「あぁ、変わったんだなぁ」ということがある。
私自身が生きて行くために一番悩み続けた問題だったし、ずっともう諦めていた問題についてだ。

私が持っていたその問題であれなんであれ、問題が解決するということは「状況が変わる」ということだ。

変化っていうのは問題が解決した時を指すのだろうと思っていたけれど、実は違うのかもしれない。

生まれてこのかたずっと抱えてきた問題を史上最短で解決できるような環境になった時はなんだかまだ夢見心地だったし、揺り返しも何回かあった。
この問題を解決した自分、という未知のものと暮らすようになった自分になかなか慣れなかったような気もする。

新しい家に連れて来られた猫のように、一角に陣取ってじっと様子を伺っている、そんな感じだったのかもしれない。

誰かがミルクボウルをおいてくれたら、近寄ったりにおいを嗅いだり。

だんだんと、大丈夫そうだ、となってくるとそのあたりを探検したりし始めて。
大きな音がするとピャッと飛び上がってもといたすみっこに逃げ込めるように。
それでも大丈夫だな、とかわかるようになる。

こういう移行期間をへて、猫はその家の猫になって行くんだろうと思う。

人間の変化もそんな感じで、はじめはおずおずと、そうしてようやくその環境に馴染んでくる。
そこではじめて周りの景色が変わったことに気付く。

それまでは馴染むことと言うか、いつでも元に戻れるように若干お尻を浮かしながら、慣れない椅子に座ってる感じなのだけれど、そろそろと力抜いても大丈夫かもって思い出す。力を抜いたところで、はじめて部屋の内装だとか、目の前におかれたカップのディテールなんかが目にいく。

私は今までいた場所にいないんだ。
だって見えるものも感じるものも違うもの。

それは最初に新しい家に連れて来られたりした時の瞬間からどれだけの時間を経ているのかはわからない。
でも、そこまで来てはじめて「変化」が完了したと言えるのだと思う。

見える景色が変わった結果、感じるものが変わるということこそが「変化」なのであって、ただポジションを移動しただけでは「変化」にならない。
それこそが新しい環境だし、新しい自分。そこから生まれる「新しいもの」こそが変化をした結果。なんだろうと思う。

そこまで定着させることが実は難しくて、移動だけしても変化しないこともあるんじゃないかと思う。それで変わったような気になる。
変化っていうのは、化け変わるんだから、やっぱりドラスティックなものであるはず。

自分がまさに変化した、そう感じたからこそこんな定義がだせるのかもしれない。

多次元の中で環境が変わるというのも魂や意識のレベルから変化してそれが現実見える世界にまで降りてきて馴染むまで、一体どれくらいの時間が実はかかっているのだろう。ドラスティックであればあるほど、移行期間は長いはずだとも思う。

でも時間なんていう概念も複雑だから、長いものを一瞬にする手段だって実はあるのだろうけれど。

移行するということ、馴染むということ。
新しく始まったことが、馴染んで当たり前になるのがすごくイヤだったけれど、そこが実は変化のゴールであったと言う結末。

焦らず、時間軸をものともせず、変化に対応していける自分でありたい。

品格っていうのは自分に合う香水みたいなもの。

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数年前に「女性の品格」という書籍がずいぶん話題になっていた気がする。確か著者は元官僚の女子大学の総長だったと記憶している。

書籍自体に目を通していないので、何ともいえないけれどわりとアンチな意見が多かったような印象がある。「旧態然としている」とか「見下している」と言ったような「何を今更」というような意見が目立った気がする。

今の日本政府は女性をもっと働かせようっていう政策なので、NHKなんかでもふありとそういうのを感じさせる「職業女性」な連続テレビドラマをやっているのだろうなぁと思う。「女性がお家で家事だけをしている」ということが当たり前な社会において、現状に合わせるという意味も含めて、ドラスティックに社会の前提を変えようとしている意図もないとはいえない。

女性が社会に進出するということは、今私がいる国のように、工事や建設現場でも女性が働くという意味ではないように思う。同時に日本よりもずっと多くの女性のマネージングクラスも女性の官僚もいる。そういうことと「品格」っていうのは全く別次元の問題なんだよねって思う。

もちろんこれは女性に限ったことではなく、男性にもいえることで。
私も何人かの人と一緒にお仕事をしてきた経験はあるが男女の違いよりも「経緯と結果」でいつも判断する。
いろいろ話したあとはずっとみている。相手が何かを報告や相談してくるまで黙っている。
社会的な能力というのは性差よりも経験値や個人差や周りの環境で変わるものだからこそ、本人のやる気が見える「行動と結果」を見守るのが一番最善なのだろうと思っている。(まぁ、こういって手の内を相手に明かしても人間ってだらけるんですよ。面白いほどにね)

「品格」ってなんだろうかと思ったときに、言葉の意味から考えると「物である品」を格付けすることによって生まれた地位ということになる。

人間に当てはめると、人間を格付けするものこそが品格なのである。
こういう話をするとたいていは貧富や出自がその話題の骨格となるし、そういう意味での品格という「家柄」みたいな連綿と続く中で培われて行く英才教育的「エリート」の持つ「品格」とどうしても混同してしまうのだろうと思う。

私みたいな出自のある部分があやふやな人間はそういう話になると語るべきものがなくなってしまうけれども、あらゆることが「品なく」あってもそれはそれとして許される社会にいて自分が保つべきこととして守っていることはいくつかある気がする。

言葉を教えることが日常だったとき、「この本にはこう書いてある、友人には丁寧すぎると笑われた」とクレームを受けることがあった。

私は自分が母国語ではない言葉を学ぶときに、そのニュアンスや距離感がわからなくて、通訳業務などに自信をもてない時期があった。
それから「誰と話しても恥ずかしくない言葉遣い」を教えることに注力するようになったのは自然な流れなのかもしれない。言葉というのはその人の人格を表すものだから。

「ネイティブ並みにはなせるようになってから、彼らが話すようなこなれた言い回しは覚えてくださいな」と生徒さんには言ったものである。自分が大変な思いをしたことをせめて自分の生徒さんには体験してほしくないという思いからであるけれど、私のように王室関係から農家のおじさん達まで話すような人はあまりいないだろうから、それが正しかったのかどうかわからない。だけれど、日本人として恥ずかしくない言葉遣いと振る舞いをしてほしい、そういう思いはいまでもある。

品格っていうのは自分が恥ずかしくない言動、動作、立ち振る舞い、相手への思いやりのことを言うんだろうと思う。客観的にその自分をみたときに「何かこの人痛いよね・・・」って思わない自分。そう思うだけで、言葉遣いだけではなく座り方だとか、すごく些細なことまで整ってくるのだと思う。

それは家の外だけではなく、お家で一人くつろいでいる時だって同じだと思う。食べっぱなしのお皿が流しにおきっぱなしだったり、脱いだものが散らかっていたり。疲れて戻ってその時は許すとしてもちゃんとあとでリカバーする自分がいることが品格っていうか、自分の美しさを形成するんじゃないかなって思う。

散らかした部屋の中で暮らす私と、ある程度整った部屋で暮らす私。自分が主人公のドラマをみているつもりでいればいいのだと思う。(現に私はついつい、ドラマで女性出演者のお洋服の着こなし、話し方や歩き方に指使い、無意識にチェックしているみたいです)

品格という言葉が格付けを表すというのは基準があるということに他ならない。
それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。もしかすると。

自分が自分を「これでよし」としている格付けが他人にとって結果その相手の格付けでどのくらいに位置しているのかってことなのだと思う。

着物を着こなし、所作が美しくても話す言葉の内容が下品きわまりない人だっているのだから、そういう人は私にとっては「品がある」人だとは残念ながらいうことができない。そういうことなんだろうと思う。シンプルに。

いきなりそういうところに引っ張りだされたときに、「品格」を急にあげようとしてもあげられないから、みんな「ソンナノイラナイ」っていっちゃうのだと思う。すべては日常の積み重ねなのだから。日々心がけるからこそ、美しく、醸して行くのだ。さりげなくその人に一番似合う香水のように。

美しくあるってそういうことなんだろうと思う。

ただ、これだけでは十分ではなくて半分ぐらいのことだと思う。それ以上に訓練とか想像力がいるのが「相手への思いやり」っていうことで、それが実は品格っていわれるものの根幹をしめているのだと思う。いろいろなお作法だってそこが原点。相手を不快にさせない、快適に、さりげなく、感謝の気持ちを持ってっていうこと。

これが本当に深いよねって思う。
こんな暑い国でそんなこといくら話しても理解してもらえないでしょうけれど。
私の思う、相手に対する思いやりを軸にした品格についてはまたの機会に。

魂とこなれたシーツの質感

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私の個人的な内面変化を全体的な流れとして追ったエントリーは、多少の反響があり。
辛そうだったもんね、という声だとかいろいろ。

「もっと気楽にしていたらよかったのに」ともいわれた。

そういう思いが全く当時の自分にはなかったであろうことを思い出して、一瞬言葉に詰まったけれど。

今思えば、いつだって緊張していたのだって、ずっと不安で仕方がないことの裏返しで、それをどうにかするために仕事だってなんだってむしゃぶりつくかのようにやっていたのではないかなぁと思う。あとで文句いわれないようにってすごく思っていたもの。

そこまでの緊張状態でいると、失敗だとかクレームがちょっとの修正のつもりででいわれたものでも存在意義だとか是か非かみたいなところにまでいっちゃうこともあったんだろうねと思う。

私みたいに、「安心」みたいなものと縁遠い人間はどうしても緊張しやすいと言うかリラックスが苦手だったからだろうと思う。オンオフ切り替えた方が効率もいいってわかっているのに、休むことにものすごく罪悪感があるからふらふらしていても仕事するし、眠れないほどに追いつめたりするんだろうと思う。

誰といれば、どこにいれば、何をすれば「安心」するか。
ちゃんとそれを見つけて、認識したのなんて最近のことだもの。

「魂」とか「肉体」が「自分の果たすべき役割」にフィットしているかどうかっていうのは、意外と大切なことだろうと思う。
そういうところでフィットしていないとずっと「疎外感」に苛まれて生きることになるから、そのころの私のようにむやみやたらな生き方をせざることもある訳で。

まるで、車が運転できないくせにカート場でカートに乗っているみたいなものだ。急ブレーキしたり、急発進したりぶつかったり、くるくる回ったり。本人はいたって真剣なのに。

そうこうしていると「魂」にフィットしたものが降りてくる時がある。その時は「私」には不相応なんじゃないか、ってずいぶん思った。
はっきり言えば「身に余る」という感じだったのかもしれない。だからあらゆるものを諦めてここに集中しようとする自分がいた。

受け入れるっていうことは諦めるっていうことと同義なのだ。
勝ち負けでいうと、負けを認めるっていうことを意味していると思っていた。
誰の手も借りたくないと思ってふらふらになっても一人でやってきたのだから、本当に負けみたいな感じだった。

今の私なら「ようやく魂にみあうものが来た」って思えてほっとしたかもしれないけれど。

当時の私は、諦めて負けを認める(正しくは藁をもすがる、なのかもしれない)っていう気持ちと、分不相応っていう両方の気持ちを持っていた。

でも今これを選択することが正しい、と直感的に思ったのは、その時はわからなかったけれど「魂」に沿うものにつながると知っていたのだろうと思う。

不相応なら、相応に磨いて行けばいい。そこに自分の生きる道があるのだから。

そう思える私にとって、その案件はもう「身に余る」モノじゃなくなっているのだろうなぁと思う。
ひとえにそれは未来がそこにあるからだ、ともいえるし、何かを諦めるのではなくむしろその正反対なのだと知っているからだろう。

気が楽であるっていうことは意外とやさしいことではないのかもしれない、実は。
波動だとか目に見えないものも含めて様々なものが影響しているから。

ひとえに「カミサマノイウトオリ」と預けてしまえれば、それが一番気楽になれるのだろう。笑
「カミサマ」はきっと自分の一番フィットするものをご存知で、それを私の前にだしてくださっているんだから。

買い立てのシーツよりも何度も洗ってこなれた質感のシーツの方が心地よいように、私が気楽である環境がもっともっと心地よくなって行くんだろうと思う。それは何より私が欲しかったもので満たされている場所であるはずだ。

フィットするものと自分仕様にこなれているというのは似ているようで実は違う。
自分の魂に合ったものでも、はじめてまとうものであれば、どんなに嬉しくても、最初は気後れしたり戸惑うものだ。
そんな感覚だって、本当に最初しか感じることはできない。
いつの間にか何十年もそれをまとって、その場所で暮らしたり眠ったりしているように、自分にとって当たり前になり、他のものよりも急速に馴染んで行くのだから。

するりと馴染んで行けるのは、魂がそれに先に馴染んでいるからだろうし、それが自分に実はふさわしいことを魂が知っているからでもある。そこにこそ、安らぎが存在するのだから。